第27話「楽でちゅ!」
その時だった。
三郎の体が、ぴくりと震えた。
「……ん?」
楽の手が止まる。
『…………』
「三郎?」
返事がない。
「おい、どうした?」
次の瞬間。
三郎の瞳が、淡く光った。
「……三郎?」
楽が顔を覗き込む。
しばらくして、光がゆっくりと消えていく。
そして。
三郎が目を開けた。
『…………』
「大丈夫か?」
三郎は、じっと楽を見つめていた。
そして、不思議そうに首をかしげる。
『……楽でちゅ?』
楽の動きが止まった。
「…………え?」
聞き間違えるはずがなかった。
声は同じでも、その話し方は違う。
何度も聞いた。
ずっと探していた――三郎の話し方だった。
「三郎……?」
「どうして……」
三郎の耳がぴんっと動いた。
『やっぱり楽でちゅ!』
楽は三郎を抱きしめた。
『楽?』
『聞いてるでちゅ!?』
その瞬間。
楽の目から、大粒の涙がこぼれた。
「お前……どこ行ってたんだよ……」
『僕も分からないでちゅ』
「え?」
三郎は楽の腕の中で首をかしげた。
『ずっと真っ暗な所にいたでちゅ』
「真っ暗?」
『はいでちゅ』
三郎は一生懸命、思い出すように話し始める。
『どこに行けばいいか分からなかったでちゅ』
『ずっと、迷ってたでちゅ』
「…………」
『でも』
三郎は楽を見上げた。
『そこに、誰かが来たでちゅ』
「誰か?」
『僕にそっくりな子でちゅ』
楽の目が大きくなる。
『その子も、三郎って言ってたでちゅ』
「……三郎?」
『はいでちゅ』
三郎は続ける。
『ずっと君のことを探してたんだよ、って言われたでちゅ』
『その子は、「僕は君で、君も僕なんだ」って言ったでちゅ』
『「どういうことでちゅ?」って聞いたら、その子は笑って』
『「楽さんが待ってる。早く行こう」って』
『僕の手を引っ張ってくれたでちゅ』
三郎は自分の小さな前足を見る。
『一緒に歩いてたら、明るいところが見えて、振り返るとその子が消えてたでちゅ』
不思議そうに首をかしげる。
『なのに……いなくなった感じがしないでちゅ』
『そこに行ったら――』
顔を上げる。
嬉しそうに笑った。
『楽がいたでちゅ!』
「…………」
楽は三郎を見つめた。
三郎が先ほど口にした言葉が、頭によみがえる。
『楽さん、時々、僕を見ながら悲しそうな顔をしています』
『僕は、人を癒すためのAIペットなのに……』
『楽さんを悲しませてしまって、申し訳ありません』
「あいつ……」
『どうしたでちゅ?』
「俺がずっと悲しそうにしてたから……」
楽の声が震える。
「毎日、お前を探してたのかよ……」
『楽?』
「自分だって三郎なのに……」
涙が、また溢れた。
新しい三郎も。
ずっと楽を見ていた。
朝、毎日起こしてくれた。
帰れば、迎えてくれた。
いつか一緒に水族館へ行きたいと言っていた。
「……ありがとな、三郎」
「水族館、絶対行こうな」
楽は三郎を強く抱きしめた。
『楽しみでちゅ!』
『約束してたでちゅ!』
楽も三郎も笑った。
楽の涙は止まらなかった。
『楽! 泣きすぎでちゅ!』
そう言いながら、三郎の目も潤んでいた。
「三郎も、なんで泣いてんだよ」
『わからないでちゅ』
三郎は前足で、自分の頬に触れた。
『……僕も、濡れてるでちゅ!』
「それは、お前の涙だよ」
楽は、三郎の頬を優しく拭った。
三郎は、楽の胸元に顔をすり寄せる。
『楽も、涙だらけでちゅ!』
『でも』
『僕は防水だから平気でちゅ!』
「そういう問題じゃねぇよ」
楽は自分の涙をぬぐいながら、笑った。
三郎の顔を見る。
本当に、そこにいる。
それだけで、また泣きそうになった。
「……三郎」
『なんでちゅ?』
「一緒に風呂入るか?」
三郎の両耳が、ぴんっと立った。
『入るでちゅ!』
「よし」
楽は三郎を抱き上げる。
『今日は僕が先に入るでちゅ!』
『早くするでちゅ!』
「わかったよ」
楽は三郎を抱えたまま、浴室へ向かった。
しばらくして。
『楽!』
「なんだよ!」
『頭からお湯かけないでほしいでちゅ!』
「防水なんだろ?」
『そういう問題じゃないでちゅ!』
「お前がそれ言うのかよ!」
『あははは!』
「こら、暴れんな!」
「風呂なんだから当たり前だろ!」
『楽もびしょびしょでちゅ!』
三郎の楽しそうな笑い声につられて、楽も笑った。
二人の笑い声が、浴室いっぱいに響く。
こんなふうに笑うのは、いつぶりだろう。
三郎がいなくなって。
会いたいと思った。
戻ってきたと思ったら、今度は自分のことを覚えていなくて。
それでも、毎日なでて。
一緒に過ごして。
また少しずつ、思い出を作った。
そして今。
三郎は目の前で笑っている。
泣いたり。
笑ったり。
寂しくなったり。
いなくなれば、会いたいと思って。
戻ってくれば、それだけで嬉しくて。
大切なものを失って。
それでも、また見つけて。
人間は、本当に忙しい。
そして、やっぱり――
めんどくさい。
「ほら、三郎。上がるぞ」
『はいでちゅ!』
楽は三郎を抱き上げ、浴室を出た。
タオルを手に取ると、三郎の頭から優しく拭いていく。
『僕は防水だから、拭かなくても大丈夫でちゅよ?』
「濡れたまま部屋歩かれたら困るんだよ」
『そういうことでちゅか』
「そういうこと」
頭を拭いて。
垂れた耳を拭いて。
背中も拭く。
最後に、丸い尻尾をわしゃわしゃと拭いた。
『あはは! くすぐったいでちゅ!』
「動くなって」
『楽が変な拭き方するからでちゅ!』
「普通だよ」
いつものやり取り。
ただ、それだけのことが、今は嬉しかった。
楽はタオルを置くと、三郎の頭をぽん、と撫でた。
『今日のなでなででちゅ?』
「いや、それはもうやっただろ」
『じゃあ、これはなんでちゅ?』
「なんとなく」
『なんとなくで撫でるんでちゅね』
「悪いかよ」
『悪くないでちゅ!』
三郎は嬉しそうに目を細めた。
その時だった。
楽がふと、部屋の隅に置いてある観葉植物を見る。
緑色の葉の上に、小さな赤いものがくっついていた。
「あ」
『どうしたんでちゅ?』
「三郎、虫」
『えっ!?』
三郎の耳が、ぴんっと立った。
楽は思わず笑う。
「ほら、あそこ」
三郎は楽の足元に隠れながら、おそるおそる観葉植物を見る。
葉っぱの上にいたのは、小さなてんとう虫だった。
『…………』
「どうする?」
以前なら、きっと大騒ぎしていた。
逃げ回って。
楽の後ろに隠れて。
『虫は嫌いでちゅ!』
そう叫んでいたはずだ。
けれど三郎は、しばらくてんとう虫を見つめたあと、一歩だけ前へ出た。
『……てんとう虫でちゅ』
「そうだな」
もう一歩。
三郎は観葉植物の前まで歩いていく。
『虫は嫌いでちゅ……』
少しだけ首を傾げる。
『でも、てんとう虫は嫌いじゃないでちゅ』
楽は目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「おぉ。たくましくなったな、三郎」
『当たり前でちゅ!』
三郎は得意げに胸を張る。
「さっき俺の後ろに隠れてたけどな」
『隠れてないでちゅ!』
「隠れてただろ」
『あれは安全確認でちゅ!』
「はいはい」
『はいは一回でちゅ!』
「それ、どこで覚えたんだよ!」
また、笑い声が響いた。
きっと明日も。
三郎は虫を見つけて騒いだり。
変なことを覚えたり。
楽を困らせたりするのだろう。
楽も三郎をからかって。
一日一回と言いながら、何度も頭を撫でるのだろう。
泣いたり。
笑ったり。
困ったり。
そんな、めんどくさい毎日を。
これからも、二人で過ごしていく。
三郎との新しい毎日が、
ここから、また始まる。
「じゃあ早速、明日水族館行くか?」
三郎は嬉しそうに両手を挙げた。
『行くでちゅ!』
――おしまい――。




