第23話「いない日常」
三匹を会社へ返却してから、半年以上が経った。
その日の夜。
千紘はソファに座り、いつものように本を読んでいた。
気づけば、時計の針は十一時を回っている。
「……もうこんな時間か」
二郎がいたら、きっと怒られていただろう。
『遅いぞ、早く寝ろ』
『まったく、俺がいないと千紘は時間にルーズだし、片付けもできないんだから』
そう言いながら、いつも世話を焼いてくれた。
もっと、二郎との時間を大切にすればよかった。
今になって思い出すのは、怒った顔や笑った顔ばかりだった。
理人はキッチンに立っていた。
夕食を作り始めたのは、ずいぶん前だった。
けれど、一品一品にこだわっているうちに、すっかり時間が経っていた。
「……またやった」
時計を見る。
とっくに夕食の時間を過ぎている。
「これじゃ、また夕飯が朝食になるな」
理人は思わず足元を見る。
『たった三品作るだけで』
『時間かけすぎなのよ』
「……イチゴがいたら、怒られるところだったな」
理人は力なく笑った。
もっと、好きなものを選ばせてやればよかった。
「イチゴがいなくなってから、何を作っても大してうまくないんだよな」
どんなに遅くなっても、イチゴは一緒に起きて、そばにいてくれた。
スマホを開くと、以前イチゴが撮ってくれたマカロンの写真が残っていた。
「……ありがとな、イチゴ」
けれど、その言葉を受け取る相手はもういない。
理人は黙って、冷めかけた料理を食べ始めた。
「ただいまー」
楽が玄関の扉を開ける。
考え事をしながら靴を脱ぎ、反射的に声を上げた。
「三郎ー、帰ったぞー」
しーん。
「…………」
楽は動きを止めた。
「あ」
誰もいない部屋を見つめる。
「もう、いないんだったな」
鞄を床へ置き、その場に座り込む。
半年前まで。
帰れば三郎がいた。
くだらない話をして。
虫の動画を見せれば嫌がって。
なでれば、嬉しそうに笑って。
「一日一回、必ずなでろ……か」
初めて黒瀬に言われたときは、面倒なルールだと思っていた。
AIなんて、所詮は機械。
俺もそう思っていた。
「一緒にいたのは、一年くらいだったのにな」
楽は静かな部屋を見回す。
「半年以上たったのに、俺の中じゃ、まだあの日で時間が止まってる」
当然、返事はなかった。
『お帰りでちゅ!』
静かな部屋の中に、あの声を今も探してしまう自分がいる。
休日。
千紘は買い物へ出かけていた。
雑貨屋の前を通ったとき、ふと足を止める。
店内のぬいぐるみコーナー。
ウサギやネコ。
いろいろな動物のぬいぐるみが並んでいる。
その中に、薄水色のぬいぐるみがあった。
「あ……」
千紘は吸い寄せられるように店内へ入り、そのぬいぐるみに近づいた。
垂れた耳。
丸い体。
どことなく二郎に似ている。
千紘はしばらく見つめた。
「……似てる」
けれど。
「違う」
二郎じゃない。
千紘はぬいぐるみを棚へ戻し、その場を離れた。
理人はドラッグストアの日用品売り場を歩いていた。
シャンプー。
石鹸。
ボディソープ。
その前を通り過ぎようとして、足が止まる。
棚に並んだ一本のボトル。
イチゴの香り。
理人は無意識に手を伸ばし、置かれていた香りのテスターを手に取った。
キャップを開け、香りを確かめる。
「…………」
あの日。
風呂場でイチゴが選んだ香り。
『これ』
『だって、いい匂いなんだもの』
理人はテスターを見つめた。
「……この匂い、まだ覚えてるな」
そっと棚へ戻し、その場を離れる。
数歩歩いて。
もう一度だけ、振り返った。
楽は書店にいた。
特に目的があったわけではない。
なんとなく棚を眺めながら歩いていると、一冊の本が目に入った。
魚の図鑑。
「魚……」
手に取る。
ページをめくると、色鮮やかな魚たちの写真が並んでいた。
水族館へ行った日のことを思い出す。
大きな水槽。
イルカショー。
そして、楽しそうにはしゃいでいた三郎。
『また行くでちゅ!』
楽の手が止まった。
あのとき、
楽は「そうだな」と答えただけだった。
返却日が、すでに決まっていたから。
「……嘘でもいいから、また行こうなって言ってやればよかった」
楽はしばらく、魚の写真を見つめていた。
それから数日後。
会社。
カタカタとキーボードを打つ音だけが、静かな室内に響いていた。
黒瀬は自分の席から三人を見る。
千紘は黙ってパソコンに向かっている。
理人も資料を確認している。
楽も珍しく静かに仕事をしていた。
黒瀬が眉をひそめる。
「お前ら、三匹を返してから妙に静かだな」
三人がそろって顔を上げた。
「そうですか?」
「ああ」
黒瀬は腕を組む。
「まあ、仕事しに来てるんだから、静かなのが普通なんだが」
「以前は、あの三匹が騒がしかっただけですよ」
千紘がそう答えると、黒瀬は首を横へ振った。
「いや、お前らも十分騒がしかったぞ」
誰も何も言わない。
黒瀬は小さくため息をついた。
(何か明るい話題でもあればいいんだが)
そのとき。
机の上のスマホが震えた。
「ん?」
黒瀬は届いた連絡を確認する。
そして。
「おっ!」
突然、大きな声を上げた。
三人が驚いて黒瀬を見る。
「なんですか?」
「発売日が正式に決まったぞ」
「発売日?」
「ああ」
黒瀬は嬉しそうにスマホを掲げた。
「AIペットだ」
三人の表情が変わる。
「いよいよ発売か」
黒瀬は一人、満足そうにうなずいた。
「どれくらい売れるか、楽しみだな」
そして、三人を見る。
「だってお前ら、最初はAIペットなんか信用してなかっただろ?」
「それが最後には、あんなに三匹をかわいがってたんだからな」
黒瀬は腕を組み、大きくうなずいた。
「これは期待できるぞ!」
三人は黙って黒瀬を見ていた。
「大ヒットしたりしてな!」
「はははっ」
「……なんだ、その顔は」
誰も答えない。
「いやぁ、うちの看板商品になったりしてなぁ」
一人で盛り上がる黒瀬の声が、久しぶりに賑やかに室内へ響いていた。




