第20話「また来よう」
休日の朝。
「三郎、出かけるぞ」
『どこ行くんでちゅ?』
「水族館」
「三郎、前に行きたいって言ってただろ?」
『やったぁでちゅ!』
三郎はバンザイしながら喜んだ。
「そんなに行きたかったのかよ」
楽は笑いながら三郎を抱き上げた。
水族館へ着くと、休日ということもあって多くの人で賑わっていた。
楽は三郎を抱え直す。
「今日はぬいぐるみのふりしてろよ」
『了解でちゅ!』
「喋るなよ」
『了解でちゅ!』
三郎は慌てて口を閉じた。
館内へ入る。
薄暗い通路を進んだ先には、大きな水槽が広がっていた。
青い水の中を、たくさんの魚が泳いでいる。
三郎の耳がぴんっと立った。
『うわぁ……!』
「三郎」
『あっ』
三郎は慌てて口を閉じる。
楽は周囲を確認して、小さく笑った。
「もうちょっと静かにな」
三郎はこくこくと頷く。
大きなエイが、二人の頭上をゆっくりと通り過ぎていった。
三郎は楽の腕の中から、夢中になって水槽を見上げている。
『あれ、空飛んでるみたいでちゅ』
「海の中だけどな」
『泳ぐって、飛ぶのに似てるでちゅね』
「まあ、言われてみればそうかもな」
三郎はしばらく魚を目で追った。
『楽もできるでちゅ?』
「泳ぐくらいならな」
『空は?』
「飛べない」
『不便でちゅね』
「人間に何を求めてんだよ」
次に向かったのは、ペンギンのエリアだった。
一羽のペンギンが水へ飛び込み、ものすごい速さで目の前を横切っていく。
『速いでちゅ!』
三郎は夢中になって、その姿を目で追った。
やがて水から上がったペンギンが、よちよちと歩き始める。
『泳いでる時と全然違うでちゅ!』
「急にかわいくなるよな」
『楽より歩くの遅いでちゅ』
「比べるなよ」
近くにいた子どもが振り返った。
楽はすぐに三郎を抱きしめる。
「……ぬいぐるみだよ」
子どもは不思議そうに三郎を見つめていた。
「お兄ちゃんのそれ、お喋りした?」
三郎はぴくりとも動かない。
「してないよ」「気のせいじゃないかな」
子どもは疑うようにじっと見た。
「本当かな?」
「……でも、ぬいぐるみが喋るわけないか」
「あっ、お母さんだ」
子どもが離れていくと、楽は小声で言った。
「危なかったな」
『三郎、完璧なぬいぐるみだったでちゅ』
「喋らなければな」
『難しいでちゅ』
「頑張れ」
しばらく館内を回ったあと、イルカショーの時間になった。
楽は前の方の席へ座る。
『ここ、近すぎないでちゅ?』
「近いほうが迫力あるだろ」
『濡れるって書いてあるでちゅ』
「大丈夫だろ」
『本当でちゅ?』
「たぶん」
ショーが始まった。
イルカが勢いよく水面から飛び出す。
『うわあああ!』
三郎は楽の腕の中で大興奮している。
「すげえな!」
『飛んだでちゅ!』
「飛んだな!」
興奮した三郎は、ぬいぐるみのふりをすることなど、すっかり忘れていた。
そして。
イルカが勢いよく尾びれで水面を叩いた。
次の瞬間。
バシャーン!
大量の水が客席へ飛んできた。
「うわっ!!」
楽は頭から水をかぶった。
髪からぽたぽたと水が落ちる。
三郎は楽の腕の中から、その姿をじっと見上げた。
そして。
『楽、びしょびしょでちゅ!』
「三郎もだろ!」
『僕は防水だから平気でちゅ!』
「濡れてることには変わりないだろ!」
『……ほんとでちゅ』
「今気づいたのかよ!」
楽はタオルを取り出し、三郎を優しく拭いてやる。
『あははは!』
『びしょびしょでちゅ!』
「二回言うな!」
「じっとしてろ」
三郎は楽しそうに笑っていた。
楽も、つられて笑った。
ショーが終わってからも、三郎は何度も言った。
『びしょびしょだったでちゅ』
「もういいって」
『記録したでちゅ』
「消せ!」
『嫌でちゅ!』
最後に二人は、クラゲの水槽へ向かった。
薄暗い空間。
青い光の中を、半透明のクラゲがゆっくりと漂っている。
さっきまで騒いでいた三郎も、静かになった。
『綺麗でちゅね』
「ああ」
二人はしばらく、何も言わずにクラゲを眺めていた。
ゆっくりと浮かんでは沈み、また流れていく。
三郎がぽつりと言った。
『ずっと流されてるでちゅね』
「ああ」
『どこに行くんでちゅかね』
「さあな」
『自分で決めないんでちゅ?』
「流れに乗ってたら、いろんなところに行けるんじゃないか」
三郎はクラゲをじっと見つめた。
『じゃあ』
「ん?」
『どこかに行っても、また戻ってくるかもしれないでちゅね』
楽は三郎を見る。
三郎は何も知らないような顔で、クラゲを見つめていた。
「……そうだな」
楽も再び水槽へ視線を戻した。
「戻ってくるかもしれないな」
帰る時間になった。
出口へ向かいながら、三郎は今日見たものを次々と話していた。
『エイ、大きかったでちゅ』
「ああ」
『ペンギン、かわいかったでちゅ』
「かわいかったな」
『イルカもすごかったでちゅ』
「俺はびしょびしょになったけどな」
『あははは!』
「笑うなよ」
そして、水族館を出る直前。
三郎が振り返った。
『楽』
「なんだ?」
『また来たいでちゅ』
「……」
楽は答えかけて、言葉を止めた。
来週には、三郎を会社へ返さなければならない。
また来られるのかなんて、今の楽には分からない。
それでも。
楽は三郎を抱き直し、その頭をそっと撫でた。
「……また来ような」
帰り道。
楽の腕の中で、三郎はいつまでも水族館の話をしていた。
その全部を、忘れないようにするみたいに。
楽は何も言わず、三郎の話を聞いていた。




