第15話「素直なままで」
「話題のドーナツを買いに来たのよ」
母は少し照れくさそうに笑った。
「……ドーナツ?」
「テレビで紹介されてたでしょう? 千紘の家の近くなら売ってると思って。私も食べてみたかったのよ」
千紘は思わず笑ってしまった。
「それだけのために来たの?」
「それだけじゃないわよ」
母は穏やかに微笑む。
「千紘にも会いたかったの」
その言葉に、千紘も少し照れくさそうに笑った。
「でも、あのドーナツは朝早くから並ばないと売り切れちゃうよ。今日はもう無理だと思う」
「あら。やっぱり、そんなに人気なのね」
母は残念そうに肩を落とした。
千紘は少し考えてから、笑顔を浮かべる。
「じゃあ、今日は泊まっていきなよ」
「いいの?」
「うん。明日の朝、一緒に買いに行こう」
母の表情がぱっと明るくなる。
「まぁ、うれしい。お言葉に甘えようかしら」
「決まりね」
二郎が小さく息をついた。
『予定変更だな』
「そういうこと」
千紘は笑いながら、二郎を抱き上げた。
『むぅ……』
(子ども扱いするな……)
「千紘、今日は何が食べたい?」
「久しぶりに、母さんのハンバーグが食べたいな」
千紘はそう答えたものの、すぐに母の顔をのぞき込んだ。
「でも、ここまで来て疲れたんじゃない? 外食でもいいよ」
「大丈夫よ。これくらい、任せなさい」
母は立ち上がると、明るい声で言った。
「じゃあ、買い出しに行きましょう」
「わかった」
千紘は腕の中の二郎に顔を近づける。
「二郎は、ぬいぐるみのふりをして動かないでよ」
『面倒くさいな』
二郎は不満そうに耳を揺らした。
『でも、分かった』
そう言うと、二郎は千紘の腕の中でぴたりと動きを止めた。
「本当におりこうさんね」
母が感心したように二郎を見つめる。
『当たり前だ』
二郎は胸を張りたいのを我慢しながら答えた。
『俺は優秀なんだ』
三人はスーパーへ立ち寄り、夕飯の材料を買ってから千紘の家へ向かった。
家に着く頃には、もう夕方になっていた。
玄関を上がった母は、部屋の中を見渡す。
「意外とちゃんときれいにしてるのね」
「意外とは余計でしょ。私、きれい好きなんだから」
「それはいいことだわ」
母は買ってきた食材を持ち上げた。
「じゃあ、台所を借りるわね」
慣れた手つきで食材を取り出し、料理を始める。
「母さん、本当に手際いいよね」
「当たり前よ。主婦歴が長いんだから」
母はうれしそうに笑いながら、ハンバーグの種をこねていく。
千紘も隣に立ち、野菜を切りながら、仕事のことや最近あった出来事をゆっくりと話した。
ふと、母の手元に目が留まる。
昔よりも、少しだけ皺が増えていた。
(母さんも、歳を取ったんだな……)
二郎はテーブルの上から、並んで料理をする二人を眺めている。
『平和だな』
しばらく観察してから、二郎は不思議そうに首をかしげた。
『千紘も母も、うれしそうだ』
『ただメシを作ってるだけなのにな』
やがて、部屋の中にハンバーグの香ばしい匂いが広がった。
「できたわよ」
「わぁ、おいしそう」
テーブルに並べられた料理を見て、千紘の顔がほころぶ。
「母さんのハンバーグ、何年ぶりだろう」
「冷めないうちにいただきましょう」
「うん。いただきます」
千紘はハンバーグを一口頬張った。
「おいしい!」
懐かしい味が口いっぱいに広がる。
「久しぶりに食べたけど、変わらないね。母さんの味だ」
「それはよかったわ」
母はうれしそうに笑ったあと、テーブルの上にいる二郎を見た。
「二郎ちゃんが食べられないのは残念ね」
『俺は食べない』
二郎はハンバーグへ鼻を近づける。
『でも、匂いは分かるぞ』
そして、千紘と母の顔を交互に見つめた。
(同じ料理でも、作る人間によって味が違うのか?)
(人間は不思議だな)
温かい夕飯を囲み、笑い声の絶えない夜が過ぎていった。
夜も遅くなり、眠る時間になった。
「二郎、ほら。おいで」
千紘が布団をめくると、二郎は慣れた様子でベッドへ入った。
「あら、千紘。いつも二郎ちゃんと一緒に寝てるの?」
「え? うん。ペットだし」
『こいつ、俺がいないと眠れないんだ』
「違うし。クッション代わりにしてるだけだから」
「ふふっ、仲良しなのね」
母は二人を見つめ、安心したように微笑んだ。
「千紘が楽しく暮らしているなら、少しは安心したわ」
「母さん……」
「それじゃあ、明日は必ずドーナツを買うわよ」
母は張り切った様子で布団に入る。
「二人とも、もう寝ましょう」
「はーい」
『そうだな』
翌朝。
開店前のドーナツ店には、すでに長い列ができていた。
「本当に並んでる……」
母が目を丸くする。
「だから人気なんだって」
二人も列の最後尾へ並び、しばらく待った。
そして、ようやく目当てのドーナツを買うことができた。
「よかったぁ」
母はドーナツの箱を大事そうに抱える。
「来たかいがあったわ」
「迷子になったかいもあったね」
「もう、千紘ったら」
母は照れくさそうに笑った。
「もう少しゆっくりしたかったけど、お父さんも心配するから、早めに帰るわね」
「うん」
母と過ごした時間は、思っていたよりもあっという間だった。
駅へ向かう途中、二人は肩を並べて歩いた。
改札の前まで来ると、母が足を止める。
そして、ふと思い出したように口を開いた。
「そうそう、千紘」
「なに?」
「小さい頃、探偵ごっこをして、近所の人まで巻き込んでたの、覚えてる?」
「えぇ!?」
千紘の顔が一瞬で赤くなる。
「母さん! なんで今、その話なの!」
母は楽しそうに笑った。
「興味を持つと一直線だったのよね」
懐かしそうに千紘を見つめる。
「人の話を素直に聞いて、『やってみたい』と思ったら、すぐに挑戦して」
「周りはずいぶん振り回されたけど、その素直さは、昔から千紘のいいところだったわ」
千紘ははにかんだ。
「……そうかな」
「そうよ」
母は優しくうなずく。
「だから、その素直さだけは大切にしなさい」
「きっと、それが千紘らしさだから」
「……うん」
千紘は小さくうなずいた。
母は二郎の頭を優しく撫でる。
「二郎ちゃん、千紘をよろしくね」
二郎は少し照れたように顔をそむけた。
『……任せろ』
『俺が守る』
やがて、電車がホームへ滑り込んできた。
「じゃあ、また来るわね」
母は電車へ乗り込む前に振り返る。
「昨日は心配をかけちゃって、ごめんなさい」
「ほんとだよ。次からは来る前に連絡してね」
千紘は少し笑って続けた。
「今度はちゃんと迎えに行くから」
母も笑ってうなずく。
「ふふっ、お願いね」
手を振りながら、母は電車へ乗り込んだ。
扉が閉まり、電車がゆっくりと動き出す。
その姿が見えなくなるまで、千紘は静かに見送った。
すると、隣にいた二郎がぽつりとつぶやく。
『だから、事件現場の再現も本気だったんだな』
「ちょっと!」
『ひぃっ』
二郎の耳が、ぺたんと寝る。
その姿を見て、千紘は思わず吹き出した。
「……帰ろっか」
『そうしよう』
千紘と二郎は並んで、家への道を歩き始めた。




