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四.対話

「お方様。秀吉公がおいでになられました」


侍女の呼びかけに、市は盛大なため息をついた。

娘たちを連れて安土城へと移ってから、毎晩のように秀吉は市の部屋を訪れてくる。侍女には取り次がぬよう伝えて追い払ってもらっているのだが、それでも粘着質に毎晩毎晩やってくる。今日も来るのではないかという怯えは、着実に市の心を削っていた。


「話すことはないと伝えよ」


そう言ったのとほぼ同時に、にわかに襖の向こうが騒がしくなった。外に待機している侍女たちが「困ります!」「おやめください!」と訴える声が聞こえてくる。


「お市様、失礼仕るっ」


その声が響くや否や、スパンと音を立てて襖が開いた。そこにいたのは秀吉だ。そのままずかずかと室内へと入ってきて、市の前に平伏した。


「お市様、ご無礼をお許しくださいませ!」

「入室の許可を出した覚えはございませんが」


冷ややかに市は言う。いくら保護してもらっている身分とはいえ、さすがに許可なく入ってこられるのは不愉快だった。ましてや相手は憎き秀吉である。


「ご無礼は承知しております。されど、一度でよいのです。お市様と、きちんとお話をさせて頂きたく存じまする!」

「私は話すことなどございませぬ。速やかにお引き取りくださいませ」

「一度でよいのです、これが最後にいたします。どうかそれがしの話を――」

「猿などと話すことなどないっ!!」


我慢の限界を迎え、市は立ち上がり声を荒げた。


「何を言おうと、何をこびへつらおうと、私は決してそなたの手をとることはない。私から長政様を奪い、勝家様までも奪ったそなたを、私は決して許さぬ!」

「お市様……」


憎しみのこもった目を向けられ、さすがの秀吉も息を飲んで動揺している様子を見せた。その様子を見て少し冷静さを取り戻した市はすぐに無表情を取り繕い、「失礼いたしました」と言って座り直す。


「いえ……お市様の仰せの通りです。それがしはお市様のご夫君をお二人とも死に追いやった。お市様に恨まれても仕方のうございます」

「……」


しおらしくそう言う秀吉。


「……小谷のことは仕方ないことであったと、頭では分かっております。私が嫁ぐことで浅井家と結ばれた同盟を一方的に破棄したのは長政様。兄上がお怒りになるのも至極当然のこと」


市はひとりごとのようにそう口にした。

あのときの秀吉は信長の家臣に過ぎなかった。主君の命令で小谷城を攻めたのだと、市も頭で分かっていた。主君の命令は絶対で、破ることなど許されない。謀反に値するのだから。


「されど……こたびの、北ノ庄のことは許せませぬ。兄上の、織田家の家臣でありながら……三法師という後継ぎがいながらも、天下を簒奪しようと動いた。そして、織田家を守ろうとした勝家様を滅ぼしたのですよ。茶々と初と江に、我が娘たちに、二度も落城を経験させた……私はそれを許せぬ。加えて」


そこで言葉を切り、市は秀吉を睨みつけた。


「あなたは以前から、私に明らかに好色な目を向けておりました。こたびの落城のあとも、私を側室にするおつもりだったのでしょう? だからこそ私は、勝家様と運命を共にするつもりでした」

「っ!」


市の言葉に秀吉は動揺する。まさか、市が自害を考えていたとは思いもよらなかったのだろう。


「二度も夫を失い、その仇の腕に抱かれるくらいならば、城とともに散ろうと思うておりました。されど、娘たちに涙ながらに説得されたのです。母上まで失いたくないと。私たちが母上を守ると、茶々も初も江も申したのです。ゆえに私は、あの子たちとともに生きる道を選んだ……。あの子たちのためにも、そなたの側室になるわけにはゆかぬ。何を言われようと、私は長政様と勝家様以外の殿方に身をゆだねる気はない」


きっぱりと言い切って、市は秀吉を見据えた。ずっと黙っていた秀吉は、大きな息を吐いて口を開いた。


「……お市様のお気持ちはよく分かりました。長きにわたるご無礼、お許しください」

「……」

「お市様はまことに姫様方に大切に思われておられるのですな。――昨夜、茶々姫様がそれがしのもとに参られました」

「茶々が?」


思いもよらぬ言葉に、市は目を瞠った。はい、と秀吉は頷く。


「母上を苦しめないでほしいと直談判に参られたのです。ですから、もうこれを最後にしようと話をしに参りました」

「……そのような事情が……」

「はい。お市様のお気持ち、この秀吉もよう分かりました。お市様がそれがしをお恨みになるのも当然と思います。――もうこれ以上、お市様を苦しめるようなことは致しませぬ」

「……」


妙に素直な物言いだ。信用できないと市はやや疑い深く思って秀吉を見る。その視線を受けた秀吉は「ご無礼いたしました。失礼いたします」と言って頭を下げ、そのまま部屋を出て行った。






秀吉の訪問がなくなったようだ。母上の顔色はここ数日で少しずつよくなってきていて、心底私はほっとした。そのまま安土城で私たち四人は平穏そのものな日々を過ごしている。江が佐治一成に嫁ぐこともなく、歴史は少しずつ変わり始めているようだ。

だが秀吉は順調に出世を重ね、北ノ庄城落城から三年後の天正十四年に関白へと就任した。朝廷から豊臣の姓を賜り、歴史に刻まれた「豊臣秀吉」となったのだ。そこは変わらないらしい。


「秀吉から縁談が持ちかけられた」


母上がそう告げたのは、大坂城が概ね完成に近づいた頃だった。


「姉上ですか?」


江が問いかける。年功序列的に最初に嫁ぐのは長女である私だろうという考えからだろう。『初』が京極高次に嫁ぐのは天正十六年のはずだし、『江』が豊臣秀勝に嫁ぐのはそれよりあとだったはずだ。となると、私になるのは妥当だった。

母上は江の問いかけに頷き、私のお相手を告げた。


「そうじゃ。お相手は羽柴……いや、豊臣秀次殿。秀吉の甥御じゃ」

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