三.猿との勝負
それから数日後の夜。
事前にアポを取ってから、私は秀吉のもとに赴いた。部屋の前にいた見張りの兵士が私の来訪を伝えると、すぐに襖が開く。
「おお、これはこれは茶々姫様」
部屋に入ってきた私を見るなり、秀吉は破顔した。というより、相変わらず品のないにやついた笑顔だ。不快感が込み上げるけど、私はそれをぐっとこらえて室内に足を踏み入れた。
秀吉の前に座り、畳に手をついて深々と礼をする。
「秀吉様。急な訪問をお許しください」
「いやいや、構いませぬぞ。姫様方とも一度じっくりお話してみたかったのです」
そう返される。顔を上げると、秀吉は相変わらず笑みを浮かべていた。
「して、わざわざこの秀吉にご用とはなんですかな?」
笑顔のまま、秀吉の目がギラリと光った。その目つきになんだか背筋がぞわっとする。親しげに装いながらも、何を考えているのか分からない目だ。
ここで言葉選びを間違えたら、一気に事態が悪い方向に転がる可能性がある。そう思うと喉が引きつった感じになって、上手く声がでなかった。だけどこのままでは来た意味がない。腹を括って私は話を切り出した。
「……この度は、秀吉様にお願いがあって参りました。母上への訪問、控えてはいただけないでしょうか」
「……ほう」
秀吉がすっと目を細める。私は唾をのみ込み、言葉を継いだ。
「私たちを丁寧に扱っていただけること、母上も私も心より感謝しております。されど、毎晩母上のもとに行かれては、母上がゆっくりお休みになることができませぬ。娘たる私から見ても、明らかに母上はお疲れのご様子。母上のことを大切に思ってくださるのであれば、母上の身を気遣ってはいただけないでしょうか」
秀吉の行為を否定するのではなく、母上のことを引き合いに出す。母上を大切に思っているのなら弁えよ、と。
「確かに茶々姫様の仰る通りですなぁ」
感心したような、けれどやや芝居がかったような口ぶりで秀吉はそう言った。
「姫様はそのためにわざわざおいでになられたのですか?」
「はい。すべては母上のためにございます。北ノ庄が落ちてからずっと、母上はお疲れのようですから」
「お市様は幸せにございますなぁ。ここまで想うてくださる娘御をお持ちなのですから」
「……本気で仰っておられますか?」
思わず口走ってしまった。まずい、と思うが時すでに遅し。秀吉の目から笑みが消えたのが分かった。
「……どういうことでございますかな?」
やや低い声。ここで変に誤魔化すよりは正直に言ってしまったほうがいいかもしれない。ええい、女は度胸だ。
「母上は二度も落城を経験し、夫を失っているのです。こたびの戦でも、母上は当初城を出ることを拒んでおいででした。『死ねば長政様に会える』……そう申しておりました。私が必死に説得し、何とかともに城を出ていただけたのです。母上は死を望んでおられたのです。それに……」
どうしようかと迷った。けれどここまで来たら言ってしまおう。秀吉だって分かっているはずだ。
「母上は、秀吉様を恨んでおいでです。小谷の父上も、北ノ庄の義父上も、あなたのせいで失ったのですから」
厳密にいえば父上は違う。父上を、浅井を攻め滅ぼしたのは伯父上だ。けれど、小谷城の戦いで最後に父上を追いつめたのは秀吉。だからこそ母上は、父上の自害の引き金を引いたにも等しい秀吉を憎んでいる。
「憎き仇に保護されるこの現状に苦しんでいるのです。そんな母上に、これ以上の負担を強いないでいただきたく思います。どうかよろしくお願い申し上げます」
私はもう一度畳に両手をつき、深く頭を下げた。
「用件はそれだけにございます。夜分遅くになりますゆえ、これにて失礼したします」
ぱたん、と音を立てて閉まった襖を、秀吉はじっと見つめていた。
「……面白い女子じゃのう。気に入ったわ」
歴史が変わる新たな一歩を自ら踏み出したことを、茶々はまだ知らない。




