十二.夜這い
徳川秀忠へ輿入れさせると秀吉から文を受け取った江の怒りは、それはそれは大きかった。
「猿め! 私から秀勝様を奪っただけでは飽き足らず、完子と小吉まで奪おうというのかっ!?」
私の前ということも忘れ、顔を真っ赤にして叫ぶ江。その怒りは至極当然のものだった。秀勝様は秀吉の命令で朝鮮出兵へと赴き、そこで命を落とした。秀吉のせいで亡くなったといっても過言ではなく、江は秀勝様を秀吉のせいで奪われたも同然なのだ。時間をかけてゆっくりと和らぎかけていた憎悪は、さらに大きくなって再燃してしまっていた。
「ははうえ……?」
江のそばで遊んでいた完子が、怯えた表情で母親を見上げる。江ははっと我に返り、「すまぬな完子、驚かせてしまったな」と笑顔を作って完子の髪を撫でた。
「秀次様が言うには、まだそれほど話は進んでおらぬとのことじゃ。ゆえに、殿下の説得にあたってくれておる。私も秀次様の正室としてできるだけのことはしよう。そなたは心配せず、完子と小吉を大切にしていてくれればよい」
「姉上……ありがとうございます。義兄上様にもお礼をお伝えくださいませ」
私の言葉に、江はほっとしたような表情になる。秀勝様を亡くして日が浅く、まだ心の傷は癒えきっていない。余計な心労をかけず、かつ完子と小吉との幸せな時間を守るのが、江の姉であり豊臣家の正室である私の役目だ。私は決意を新たにした。
その日の夜。私は自室でおね様にあてた文を書いていた。江と秀忠の縁談はなかったことにしてほしいこと、おね様から秀吉に口添えしてほしいこと、それらをしっかりと書いておかねば。
「……?」
署名を終えて筆をおいたとき、何やら廊下が騒がしくなった。
「お方様はもうお休みになっておられます!」
「ええい、うるさい!」
よねが止める声と、それをはねのける秀吉の怒鳴り声だ。こんな夜に秀吉が事前の連絡もなく来るなんて、いったいどういうことだろうか。
困惑しているうちに襖が開いた。姿を見せたのは秀吉だ。その目は焦点が定まっておらず、私を見ているようで見ていなかった。なんだか不気味で、私は思わずわずかに後ずさった。
「で、殿下? このような時分にどうなさいました?」
「……」
私の問いかけに、秀吉は何も言わない。あらぬ方向を見ながらふらふらと室内に入ってくる。
そして、
「お市様!!」
母上の名を叫び、私に突進してきたのだ。突然のことに私は動けずそのまま押し倒される。秀吉は私に馬乗りになり、夜着の襟に手をかけた。秀次様と結ばれて十年以上たち、すでに四児を設けている私には、秀吉が何をしようとしているかすぐわかった。
「で、殿下……!? おやめください!」
「お市様……この秀吉、ずっとお市様をお慕い申し上げておりまする!」
秀吉は私の声に応えず、私を母上の名で呼んだ。私を見下ろすその目は血走っており、正気を失っているように見えた。呼吸はハァハァと荒く、かなり気が高ぶっているようだ。
――まさか、秀吉はもうおかしくなっているのだろうか。確かに私は母上によく似ているが、秀吉だって母上がすでに出家していることは知っている。それすらも分からなくなっているのだろうか。
いや、それどころではない。このままでは秀吉の手籠めにされてしまう。そんなのは絶対に嫌だ、私は秀次様の妻なのだ。
「茶々っ!」
声がした。それと同時に秀吉が横に吹っ飛ぶ。おそらく私の侍女たちが呼んだのだろう、秀次様が駆けつけてくれたのだ。秀吉を殴り飛ばし、私に駆け寄り抱え起こしてくれる。
「茶々、しっかりせよ! 大事ないか!?」
問いかけられ、私は今さらになって身体が震えてくるのを感じた。それでも何とか頷く。助かったのだと安堵し、遅れてさっきの恐怖がどっと押し寄せてくる。
「秀次! このわしを殴るとは何を考えておる!」
秀吉が怒声を飛ばしてきた。秀次様はまるで守るように私を胸に抱え込んだため、私からは秀吉の表情を窺い知ることができない。
秀次様は私をぎゅっと抱きしめたまま、低い声で秀吉へと問いかける。
「そのお言葉をそっくりお返しさせていただきます、叔父上。我が妻に手を出そうとは、どういう了見にございますか」
「は?何を申しておる、そなたに妻など……」
心底意味が分からないという声音の秀吉だったが、途中で言葉が途切れた。秀次様と秀吉がどんな表情で向き合っているのか私には見えないが、秀吉が混乱している空気が伝わってきた。
「ひとまずお帰りください。此度のことは、また改めてお話しさせていただきたく存じます」
「……」
秀次様の声には凄味がある。そのまま秀吉が退室していく気配がして、秀次様はようやく私を開放してくれた。そのまま深々と頭を下げてくる。
「すまぬ、茶々。もっと早く駆けつけられればよかったのだが……」
「いえ……秀次様が詫びることではございませぬ。まさか殿下があのようなことをするとは……」
乱れた夜着を直しながら私はそう言った。こんな夜に秀吉が私の居室に突撃するなんて、普通は考えないだろう。
「秀次様……殿下は、私を「お市様」と呼んでおりました。私を母上と錯覚されていたようです」
「ああ……そうであろうな。そなたが私の妻だということも理解しておらぬようであった。……叔父上はどうしてしまわれたのか……」
不安そうな表情を浮かべる秀次様。
「……今の叔父上では、この国の統治は困難やもしれぬな……」
まるで独り言のように呟かれた言葉。なんだか一波乱起きそうな気がして、私は内心の動揺を抑えるのに苦労したのだった。




