第9話 ヒロイン、フラグを乱立させる
入学四日目の朝。
私は鏡の前で、アリアの手際よい動きを眺めていた。
「本日はどのようにいたしましょうか、お嬢様」
「そうね。今日は午後から扇舞いの自主練習をする予定だから、後ろでひとつに編み下ろしてもらえるかしら。リボンは、そう、深緑の細いもので」
「かしこまりました」
櫛が髪を滑る心地よい感触に、思わず目を細める。
毎朝こうして、その日の気分や午後の予定に合わせて髪型を選べる。
それだけで、朝から満ち足りた気分になる。
前世のアラフィフ時代など、寝癖を水で濡らして撫でつけ、黒いゴムで手早く縛るだけで終わっていたのだから、雲泥の差だ。
「完璧ですわ、アリア」
「恐れ入ります。とても凛としてお似合いでございます」
満足して寄宿舎の廊下へ出ると、案の定、角のところで待ち構えていた人影があった。
ミレーヌ・オルコット嬢である。
「…………」
「ご機嫌よう、ミレーヌ様」
「……編み下ろし」
「ええ。今日は午後に身体を動かしますので」
「縦ロールは……?」
「今日は風が強そうですもの。崩れてしまいますわ」
「実用性……! 悪役令嬢なのに、髪型に実用性を求めるなんて……!」
彼女は額を押さえてよろめいた。相変わらず朝から芝居がかったリアクションである。
「いいでしょう! あなたがいくら悪役令嬢の仕事をサボろうと、私は私の道を突き進むだけです!」
「ええ、励んでくださいな」
「フン、聞いて驚きなさい! 昨日の放課後にカイル様とユリウス様のフラグを立てました! そして今日は、宮廷魔術師長のご子息ルシアン様と、侯爵令息セドリック様を同時に攻略します!」
「ふらぐ……?」
「とにかく、順調ってことです! 序盤で全員の好感度を均等に上げておかないと、後で個別ルートに入れないんだから!」
高らかに宣言し、ミレーヌ嬢は「フンッ!」と鼻を鳴らして去っていった。
敵対心を剥き出しにしながらも、なぜか予定をすべて私へ教えてくれるのが不思議でならない。
「……あの方、本当に元気でいらっしゃいますね」
後ろのアリアが、感心したように呟いた。
「ええ。若いって素晴らしいわねえ」
私は穏やかに頷き、教室へ向かった。
◇
その日の昼休み。
ミレーヌは胸を高鳴らせて、魔術研究棟の温室へと向かっていた。
(ふふん、甘いわよ悪役令嬢! あなたが暢気に髪型を変えてる間に、私はゲームの知識でガンガン先手を打つんだから!)
狙うは、宮廷魔術師長の子息ルシアン。
物静かで人を寄せ付けない孤高の天才魔術師。
ゲームでは、彼が温室で研究に没頭している際、ヒロインがお手製の甘い焼き菓子を差し入れることで、少しずつ心を許していくイベントが存在するのだ。
温室の扉をそっと開けると、光の差し込むガラス張りの部屋の奥に、銀髪を揺らす美少年――ルシアンがいた。
試験管を片手に、真剣な眼差しで青い液体を煮沸している。
(来た……! 立ち絵通りの美少年……!)
ミレーヌは用意していた小箱を胸の前に構え、可憐な足取りで歩み寄った。
「あの……ルシアン様? 研究のお邪魔をして申し訳ありません。でも、根を詰めすぎるとお身体に毒かと思いまして……もしよろしければ、このクッキーをどうぞ!」
完璧なヒロインの上目遣い。
ルシアンは試験管から目を離さず、視線を手元の調合記録へ落としたまま、平坦な声で言った。
「差し入れ? ありがとう。そこへ置いておいて」
「えっ、あ、はい!」
ミレーヌは指定された作業台の端へ、そっと箱を置いた。
ルシアンは一度も顔を上げず、次の薬品をスポイトで吸い上げている。
(受け取ってくれた……! 会話も成立した! イベント成功だわ!!)
「では、失礼いたします! お口に合うと嬉しいです!」
「ん」
背中で聞こえた短い返事に、ミレーヌは頬を上気させた。
「よしっ! 次は放課後、セドリック様よ!」
◇
そして放課後。
ミレーヌは図書棟のテラスへと向かった。
侯爵令息セドリック。
名門貴族の跡取りとして完璧を求められ、誰も寄せ付けない彼が、テラスで一人チェス盤を睨んでいるところにヒロインが通りかかる――という王道のイベントである。
テラスへ出ると、予想通り、セドリックがテーブルでチェス盤に向き合っていた。
(よーし、ルールなんて全然知らないけど、『教えてください』って無邪気に突撃よ!)
ミレーヌは明るい笑顔を作り、駆け寄った。
「セドリック様! こんにちは! 難しそうなゲームをなさっているんですね。私、チェスって見たこともなくて……もしよかったら、少しだけ教えていただけませんか?」
セドリックは駒を持った手を止め、静かにミレーヌを見上げた。
その冷ややかな美貌に、わずかな思案の色が浮かぶ。
「……チェスを? 構わない。座るといい」
「! ありがとうございます!」
向かいの席へ滑り込むミレーヌ。
セドリックは淡々と白のポーンを一歩進めた。
「これがポーンだ。初手では二歩、以降は一歩ずつ前進する。相手の駒を取る際は斜め前だ」
「へええ! セドリック様、教え方がお上手なんですね!」
「初心者なら教えるのは当然だろう。次は君の手番だ」
淡々と基本ルールを説明し、わずか十分足らずでミレーヌのキングを詰ませるセドリック。
「チェックメイトだ。基本は理解できたかな」
「は、はい! すごく勉強になりました!」
「そうか。では、私は次の講義があるのでこれで」
セドリックは手際よく駒を片付けると、一礼して去っていった。
テラスに残されたミレーヌは、頬を染めて両手を握り締めた。
(教えてくれた……! あの孤高のツンデレ貴公子が、私にチェスを一から教えてくれたわ……! 好感度アップ確実!!)
「やった……! アディエル殿下、カイル様、ユリウス様、ルシアン様、セドリック様……! これで五人全員、初期イベントクリアよ!!」
夕暮れのテラスで、ミレーヌは高らかに勝利を確信していた。
◇
その頃。
講堂で軽やかに扇舞いの稽古を終えた私は、寄宿舎の自室へ戻り、モフを膝に乗せて至福のため息をついていた。
「きゅう~」
「いい子ね、モフ。今日も毛並みが素晴らしいわ」
汗を流したあとの香草湯、そして湯上がりの足先をアリアに軽く揉んでもらいながら、セレイア領から届いた秋の収支報告書を眺める。
セレイアの花から作られた香水は、王都の貴婦人たちの間で相変わらず高値で取引されているらしい。
私が何もせずとも、領地の金庫にはチャリンチャリンと金貨が積み上がっていく。
「お嬢様、焼き立てのフィナンシェが入りました」
「ありがとう、アリア。香ばしくて美味しいわ」
外では何やら甲高い歓声が聞こえたような気もしたが、ここは防音のしっかりした公爵令嬢専用の特別室である。
誰かが何かの成功に沸き立っているのなら、結構なことだ。
私は温かいお茶を一口すすり、モフのふかふかの腹に顔を埋めた。




