第10話 悪役令嬢のお弁当と、走るヒロイン
入学から一週間が経った。
ミレーヌ・オルコット嬢の「五人同時攻略スケジュール」は、極めて過密を極めていた。
乙女ゲームにおいて、複数の攻略対象の好感度を均等に上げるというのは、分刻みの行動管理を意味する。
そしてその過酷な現実が、もっとも顕著に現れたのが――昼休みだった。
ぽかぽかと暖かな春の日差しが降り注ぐ中庭。
私は噴水のそばにある、白塗りの丸テーブルに腰掛けていた。
風通しがよく、木漏れ日が心地よい特等席である。
「本日のお弁当でございます、お嬢様」
アリアが重箱のような美しい木箱を開けてくれる。
公爵家の専属料理人が腕によりをかけた特製ランチだ。
サクサクに焼き上げられたサーモンとほうれん草のパイ包み。色鮮やかな温野菜のサラダには、香ばしいナッツのドレッシング。一口サイズの柔らかな仔牛のローストは、見るからに肉汁が溢れそうだった。
「まあ、美味しそう。料理長に感謝しなければね」
「はい。お嬢様のお好みに合わせて、味付けを少し控えめにしたそうでございます」
至福の昼食を始めようと、私がフォークを手にした――その時だった。
タタタタタタッ!!
猛烈な足音が石畳を叩き、視界の端を桃色の旋風が横切った。
ミレーヌ嬢である。
手には中庭の案内図を握りしめ、ものすごい形相で走っている。
「ミレーヌ様?」
思わず声をかけると、彼女は急ブレーキをかけ、肩で息をしながらこちらを振り返った。
「ハァッ……ハァッ……! れ、レティシア様……!」
「あら、ご機嫌よう。そんなに急いで、どちらへ?」
「今からっ……! テラスへ行くのよ! セドリック様が読書している時間だから、おすすめの本を聞く昼食イベントなの!」
「まあ、そうなの。いってらっしゃいませ」
「フン、見てなさいよ!」
タタタタタッ!と、彼女は再び風のように走り去っていった。
元気なことである。
「お嬢様、パイが冷めてしまいます」
「そうね。いただきましょうか」
フォークを入れると、サクッと軽やかな音がした。
口の中に広がるバターの香りと、サーモンの塩気。完璧な焼き加減だ。美味しいものを食べている瞬間こそ、人間がもっとも幸福な時間である。
仔牛のローストへ手を伸ばしかけた、数分後。
タタタタタタッ!!
再び猛烈な足音が響き、今度は反対方向からミレーヌ嬢がダッシュで戻ってきた。
「ハァッ……ハァッ……! きゅ、急遽予定変更よ……!」
「まあ、お戻りになりましたの」
「セドリック様、いなかったの! でも情報収集したら、アディエル殿下が中庭の噴水広場にいるって! 遭遇イベント回収しなきゃ!」
「お忙しいのねえ」
「忙しいに決まってるでしょ! ヒロインは時間との戦いなんだから!」
踵を返し、噴水広場の方角へ砂煙を上げて走っていく。
私は仔牛のローストを口に運んだ。
柔らかい。噛むほどに旨味が広がる。
「……アリア」
「はい、お嬢様」
「オルコット様、手ぶらだったわよね?」
「左様でございますね。お弁当箱のようなものは所持しておられないようでした」
「学食へ行く時間はあったのかしら」
「あの移動速度と旅程を拝見する限り、パン一個すら口にしておられないかと存じます」
私はサラダのプチトマトをつまみながら、眉をひそめた。
「まだ十二歳なのに。ちゃんと食べないと大きくなれないわよねえ」
「育ち盛りでございますからね」
のんびりと会話を交わしていると、昼休み終了の予鈴が遠くで鳴り響いた。
その直後。
タタタタタタタタッ!!
今日一番の全力疾走で、ミレーヌ嬢が駆け抜けていく。
髪は乱れ、制服のリボンは曲がり、もはや息も絶え絶えだった。
「ま、待ちなさい……! 第三訓練場で……カイル様が自主練を始める時間だったのを……忘れてたぁぁぁぁっ!!」
「ミレーヌ様、もうすぐ予鈴が終わりますわよ! お昼は!?」
「そんな場合じゃありませんーーーっ!!」
絶叫を残し、彼女は訓練場の方角へ消えていった。
「……走り去ってしまわれましたね」
アリアが呆然と呟く。
「ええ……。若いって、本当に体力が有り余っているのねえ」
私は最後の一口である温野菜を食べ終え、上品にナプキンで口元を拭った。
実に美味しく、栄養バランスの取れた、穏やかなランチであった。
◇
そして放課後。
寄宿舎へ戻る廊下を歩いていると、前方に亡霊のようにふらふらと歩く人影があった。
「あ……れ……? 階段って……こんなに段数……あったっけ……」
壁に手をつき、今にも倒れそうなミレーヌ嬢である。
朝の威勢の良さは完全に消え失せ、顔色は真っ青だった。
「ミレーヌ様」
「ひゃいっ!?」
声をかけると、彼女は怯えたように飛び上がった。
その瞬間。
――グウゥゥゥゥゥゥッ……ギュルルルルル……。
静かな廊下に、信じられないほど盛大なお腹の虫の音が響き渡った。
「…………っ!」
ミレーヌ嬢の顔が、一瞬で耳まで真っ赤に染まる。
「お昼、召し上がれなかったのでしょう?」
「ち、違います! これは……何かの鳴き声で……!」
「アリア」
「はい、お嬢様」
アリアが鞄から、小さな包みを取り出した。
午後のお茶用に料理長が持たせてくれた、フィナンシェだった。
「よろしければ、これをお召し上がりになって。お部屋へ戻るまでの足しにはなると思いますわ」
「えっ……?」
「空腹では、恋も戦もできませんもの」
「戦……!? や、やっぱり私を敵だと認識して……!?」
「お嫌なら、戻していただいても構いませんけれど」
「た、食べます!!」
奪うように胸に抱え込み、ミレーヌ嬢は涙目で私を睨みつけた。
「か、勘違いしないでよね! これで借りを作ったなんて思わないでよ! 今日のイベント回収は完璧だったんだから! 私、五人全員と確実に仲良くなってるんだからね!!」
捨て台詞を残し、彼女はふらつく足取りで自室へと駆けていった。
「仲良くなっているのなら、何よりですわねえ」
「左様でございますね」
アリアと顔を見合わせ、私たちは穏やかに微笑み合った。
本人が充実しているなら、それが一番だ。
部屋へ戻れば、今日もモフが待っている。
私の学園生活は、本日も実に健康的で、平和そのものだった。




