第21話 夏休み、何もしませんわ
終業式が終わり、学園長の長い挨拶がようやく締めくくられると、夏季休暇の始まりを告げる鐘が講堂に鳴り響いた。
途端に、それまで大人しく座っていた生徒たちが一斉に立ち上がり、あちこちから明るい声が聞こえてくる。
「やっと夏休みですわ!」
「このあと、お茶でもいかが?」
「馬車が来るまで時間がありますものね」
そんな声を聞きながら、私も席を立った。
「では皆様、よい夏休みを」
「レティシア様も!」
「また新学期にお会いしましょうね」
エミリー様とソフィア様へ挨拶を済ませると、そのまま講堂を出る。
寄宿舎へ戻る必要はない。荷物は昨日のうちにまとめてあり、アリアとモフもすでに出発の準備を終えている。
予定通り裏門へ向かうと、そこには見慣れた公爵家の馬車が停まっていた。
私の姿を見つけたアルフレッドが懐中時計を確認する。
「予定より三分ほど早うございます」
「結構。出してちょうだい」
「承知いたしました」
馬車へ乗り込むと、待っていたモフが嬉しそうに私の隣へ飛び乗り、アリアも続いて乗り込んだ。
「きゅう!」
「さあ、行きますわよ」
扉が閉まり、ほどなく馬車が動き出す。
正門の混雑に巻き込まれることもなく、誰かに呼び止められることもない。終業式が終わってから、ここまで実に速やかだった。
完璧である。
「お嬢様」
「何かしら」
「普通にご帰宅なさっただけでございますよ」
「分かっていますわ」
向かいに座ったアルフレッドが、なぜそんなことを確認するのか分からない。
私は別に逃げているわけではない。ただ夏休みへ向かっているだけで、少々それが迅速だったというだけのことである。
◇
別邸へ到着したのは、翌日の午後だった。
馬車を降りた瞬間、湖から吹いてきた涼しい風が頬を撫で、王都で感じていた暑さが嘘のように遠ざかっていく。
「……涼しいですわね」
目の前には深い森の緑が広がり、その向こうでは湖面が陽の光を反射してきらきらと輝いている。少し離れた湿地には青紫色のセレイアが咲き、風に揺れていた。
二年前、初めてここを訪れたとき、別邸はまだかなり古びていた。壁も屋根も傷み、家具には布が掛けられ、このままでは泊まるのも難しい状態だった。
それが今では外壁も屋根もきちんと補修され、窓枠は新しくなり、庭まで綺麗に整えられている。
もちろん、王都にある公爵邸のような豪華さはない。それでも私は、この静かな別邸を気に入っていた。
「きゅう!」
モフが馬車から飛び降り、そのまま嬉しそうに庭を駆けていく。
「モフ、あまり遠くへ行ってはいけませんわよ!」
「きゅー!」
返事だけは立派である。
別邸へ入ると、管理人と使用人たちが出迎えてくれた。アリアは荷物の確認を始め、アルフレッドは管理人と何やら話している。
私はそのまま自分の部屋へ向かった。
窓を開ければ湖が見え、寝台にはきれいなシーツが敷かれ、ふかふかの枕まで用意されている。
その光景を眺めているうちに、二年前のことを思い出した。
十歳の誕生日に、お父様からこの土地をいただいたとき、私は古びた別邸を見ながら、いつかここをきれいに直して、モフと一日中のんびり過ごしたいと思ったのだ。
あれから二年。
別邸はすっかり直り、モフも一緒にいる。そして今は、待ちに待った夏休みである。
「……とうとう、この日が来ましたわね」
いつの間にか庭から戻ってきたモフが、何のことだろうという顔で私を見上げた。
「きゅ?」
私はその頭を撫でながら、明日の予定を高らかに宣言した。
「明日は、何もしませんわよ」
「きゅう!」
モフが元気よく返事をしたので、決意表明は無事に終了した。
◇
翌朝、目を覚ますと、カーテンの隙間から朝日が差し込み、窓の外からは鳥の声が聞こえていた。
枕元の時計を見る。
いつもなら、そろそろ起きる時間である。
けれど授業はなく、朝から誰かと会う約束もなければ、急いで片付けなければならない用事もない。
つまり、今ここで起きる理由がない。
私は何の迷いもなく、もう一度布団をかぶった。
素晴らしい夏休みの始まりだった。
◇
次に目を覚ましたときには、すっかり日が高くなっていた。
アリアに手伝ってもらって着替えを済ませ、遅めの朝食を取る。食卓には焼きたてのパンと卵料理、それに冷たい果実と温かいお茶が並んでいた。
どれも美味しい。
しかも、自分で作らなくていい。
食べ終わったあとに皿を洗う必要もなければ、台所を片付ける必要もない。
これだけでも、私が神様との交渉で「家事をしなくていい人生」を希望した価値は十分にあったと思う。
「お嬢様、本日はどのようになさいますか?」
食後、アリアに尋ねられた。
「何もしません」
「かしこまりました」
実に話が早い。
私はモフを連れて湖へ向かった。
木陰には長椅子が用意されていて、腰を下ろせば湖から涼しい風が吹いてくる。誰が用意したのかは知らないが、おそらくアルフレッドだろう。
実によく分かっている。
モフは私の隣へ飛び乗ると、そのまま太腿へ頭を載せた。
「重くなりましたわねえ。二年前は、もっと小さかったのに」
「きゅう」
返事をするモフの頭を撫でながら、しばらく湖を眺める。
聞こえてくるのは風に揺れる木の葉の音と、鳥の声くらいだった。誰かが訪ねてくる気配もなく、今のところ今日の予定が増える様子もない。
「……素晴らしいですわね」
「きゅう」
せっかくなので持ってきた本を開いてみたものの、三頁ほど読んだところで、湖から吹いてくる風とモフの温かさに負けた。
眠い。
私は本を閉じ、長椅子へ深く身体を預けた。
誰にも起こされる必要がないのだから、眠いときには寝ればいいのである。
◇
目を覚ますと、アリアが冷たい果実水を持って立っていた。
「お目覚めですか?」
「ええ」
「お昼のお食事はいかがなさいます?」
「食べます」
「こちらへお持ちいたしましょうか?」
「お願いします」
これ以上ないほど完璧な流れだった。
前世では、休みの日だからといって何もしなくていいわけではなかった。食事をするなら作らなければならず、食べ終われば片付けが待っている。洗濯物は休みの日にも出るし、部屋だって放っておけば勝手にきれいになってくれるわけではない。
むしろ休みだからこそ、普段できなかった用事をまとめて片付けることもあった。
けれど今は、食事も掃除も洗濯も、それを仕事として引き受けてくれる人たちがいる。そして私は、その仕事にきちんと給金を払える立場にいる。
誰かに無理を押しつけているわけでもなく、私自身がやらなければならない理由もない。
ならば、やらない。
これほど合理的なことはないと思う。
神様との交渉で家事をしなくていい人生を希望した昔の私は、本当によくやった。今ここに呼び出せるものなら、肩の一つくらい叩いて褒めてあげたい。
昼食を食べたあとは冷たい果物をつまみ、少しだけ本を読み、モフを撫でながら湖を眺めた。
そのうち、また眠くなったので昼寝をした。
何もしないために、終業式から三分の無駄もなく移動したのである。その努力がこうして報われているのだから、実に有意義な一日だった。
◇
夕方、別邸へ戻って湯浴みを済ませると、夕食までにはまだ少し時間があった。
私は居間の長椅子へ腰掛け、膝の上で丸くなったモフを撫でながら、今日一日を振り返ってみた。
よく寝て、美味しいものを食べ、モフを撫で、湖を眺め、また寝た。
百点である。
明日も同じように過ごして構わないし、明後日もそれでいい。数日後にはお父様とお母様もこちらへ来る予定だから、そのときは湖のそばで一緒にお茶をするのも楽しそうだ。
そんなことを考えていると、アルフレッドが部屋へ入ってきた。
「お嬢様、お手紙が一通届いております」
「明日でいいわ」
今日はもう何もしないと決めている。
「教会からでございます」
「……教会?」
私は顔を上げた。
教会から私個人へ手紙が届く理由に、心当たりがない。
「こちらでございます」
差し出された封筒には立派な封蝋が押されていた。
少し迷ったものの、仕方なく受け取って封を切る。
中には丁寧な時候の挨拶から始まり、神への感謝やローゼンバーグ公爵家への祝福が延々と綴られていた。
長い。
それでも読み進めていくと、ようやく本題らしき一文が現れた。
『レティシア・ローゼンバーグ様が所有される土地の一部を、教会建立のためご提供いただきたく――』
そこで私は読むのを止め、念のためもう一度その一文を読み直した。
どうやら読み間違いではないらしい。
「アルフレッド」
「はい」
「ローゼンバーグ公爵領は、狭くなりましたの?」
「いいえ」
「教会を一つ建てる土地にも困るほど?」
「まさか」
「そうですわよね」
窓の外へ目を向ければ、夕暮れの湖と森が見える。その向こうには、二年前にモフが見つけたセレイアの群生地がある。
十歳の誕生日に、お父様からいただいた土地だ。
初めて訪れた頃には、森と湖と小さな集落、それから古びた別邸があるだけだった。
その頃、教会から土地を提供してほしいなどという話は一度もなかった。
ところがセレイアが商品となり、この土地が以前より利益を生むようになった途端、教会を建てたいと言い出した。
しかも、広大なローゼンバーグ公爵領のどこかではない。
私が所有している、この土地に。
「……嫌ですわ」
「まだ、ご返事を求められている段階でございますが」
「求められたら、お断りします」
「理由をお尋ねしても?」
私は手紙を丁寧に畳み直してから、アルフレッドを見た。
「わたくしのものですもの」
せっかく始まった夏休みだというのに、どうやら「何もしない」という完璧な予定へ、一つだけ予定外が入り込んだらしい。




