第20話 夏休みの計画と、煙のような退路
七月に入ると、日差しはいよいよ強くなり、学園の石畳からは陽炎が立ち上るようになった。
期末試験も特に波乱なく終わり、教室にはそこはかとなく解放的な空気が漂い始めている。
もうすぐ、夏休みである。
昼休み、いつもの中庭の丸テーブルで、私、エミリー様、ソフィア様の三人はお弁当を広げていた。
「もうすぐ夏休みですわね」
エミリー様が、冷たいお茶を飲みながら嬉しそうに言った。
「ええ。お二人はどのように過ごされる予定ですの?」
「私は実家の果樹園へ戻りますわ。ちょうど林檎や桃の収穫が本格化する時期ですので、母と仕分けを手伝ったり、ジャムを煮たりする予定です」
「まあ、楽しそうですわね。ソフィア様は?」
「私は領地の本邸で、溜まっている物語の本をひたすら読むつもりですわ。涼しい図書室に籠もって、誰にも邪魔されず読書に耽るのが今から楽しみで」
「それも素敵ですわ」
二人とも、実家へ帰って好きなように過ごすらしい。実によろしいことだ。
「レティシア様は、やはり王都の公爵邸で夜会などに出席なさるのですか?」
エミリー様が尋ねてきた。
私は首を横に振る。
「いいえ。田舎にある別邸へ参りますの。湖のそばで風通しもよく、静かなところですわ」
「まあ、避暑ですのね」
「ええ」
それ以上は言わない。
別邸のある土地のことも、そこで採れる花の名も、まして、その花から作られる香水の名も口にする必要はない。
セレイアは、今では欲しくてもなかなか手に入らない希少な香水として知られている。
もしも『そのセレイアの産地ですの?』などという話になり、どこからか王宮まで伝わったら、面倒なことになる。
私は今も、第一王子殿下の婚約者候補の一人である。
候補は私だけではない。ほかにも何人かいるし、家格だけなら私と同じ公爵令嬢もいる。
大変ありがたいことである。
できることなら、その中のどなたかに決まっていただきたい。
だが王家は、まだ私を候補から外すつもりがないらしい。
私は公爵家の一人娘で、正式な後継者でもある。将来は領地も財産も、そこから生まれる利益も私が継ぐのだから、王家からすれば、それらとの結びつきを強めたいのだろう。
だが、それは王家の都合。
私には関係ないし、まして、そのために夏休みまで差し出すつもりはない。
(……余計な情報は、出さないに限りますわね)
私は静かにお茶を飲んだ。
「よろしければ、レティシア様もお遊びにいらっしゃいませんか?」
ふいに、エミリー様が少し照れたように言った。
「私の実家の果樹園、採れたての果物がたくさん食べられますの。もしよろしければ……」
「私の領地の古い砦跡も、風情があって涼しいですわよ」
ソフィア様まで便乗する。
二人が純粋な好意で誘ってくれているのは、よく分かったし、素直に嬉しい。
けれど、今年は行かない。
私の心は一秒で決まった。
人の家へ遊びに行くのは楽しい。けれど、泊まりがけとなれば話は別である。
相手のご家族へ挨拶をして、手土産を用意して、食事の席ではそれなりに気を遣う。それはそれで楽しいのだろうが、今年の夏休みに私がしたいことではない。
「ありがとうございます。でも今年は、家族と別邸でのんびり過ごす予定ですの」
「まあ、残念ですわ」
「また今度、お誘いしますわね」
「ええ。ぜひ」
それで話は終わり、お互いの夏休みの予定を話しながら、お弁当を食べる。
ごく普通の昼休みだった。
◇
その日の放課後、寄宿舎の居室へ戻るなり、私はアルフレッドを呼んだ。
「アルフレッド。終業式の日の予定を確認したいのだけれど」
「はい、お嬢様。終業式は午前中で終了いたします。寮の完全退去は翌日の夕方までとなっておりますので、多くの生徒は式典後に荷造りを済ませ、翌朝――」
「遅いわ」
「……はい?」
「終業式が終わったら、その日のうちに出ます」
アルフレッドが一度瞬いた。
「翌朝ではなく、でございますか」
「ええ」
「何か、お急ぎのご予定が?」
「ありませんわ」
「……ございませんか」
「何もないからこそ、急ぐのよ」
アルフレッドが黙った。
夏休みには長い休暇が待っている。別邸へ行けば湖があり、モフもいて、美味しい食事を用意してもらえるうえ、好きなだけ昼寝ができる。
素晴らしい。
その予定を守るためなら、私は努力を惜しまない。
「荷造りは前日までに終わらせておいてちょうだい。当日は終業式が終わったら、すぐに出発します」
「承知いたしました」
「馬車は裏門へ」
「裏門、でございますか」
「正門は混みますもの」
「左様でございますね」
「それに、誰かに捕まって夏休みの予定を聞かれたら面倒でしょう?」
アルフレッドが私を見る。
しばしの沈黙のあと、彼は静かに口を開いた。
「……殿下でございますか」
「私は何も申し上げておりませんわ」
「失礼いたしました」
さすがである。七年間も見ていれば、説明など不要らしい。
「行き先を尋ねられた場合は、いかがいたしましょう」
「田舎の別邸、とだけ」
「土地の場所は?」
「言わなくて結構です」
「セレイアの名も?」
「絶対に出さないで」
即答した。
セレイアの名が王宮へ伝われば、王妃陛下が興味を持つ可能性がある。そして王妃陛下もまた、私を第一王子殿下の婚約者候補から外す気はない。
第一王子殿下は現在十五歳で、三年後の卒業までには正式な婚約者を決めることになっている。
候補が何人もいるのだから、その中から選べばいい。
私以外を。
「『せっかくですから、アディエルもご一緒に』などという話になったらどうするの」
「お迎えすることになりますね」
「嫌よ」
即答した。
「私は昼寝をするの」
「左様でございますか」
「ええ。大切な予定よ」
「先ほど、予定はないとおっしゃっておられましたが」
「何もしないという予定があります」
「なるほど」
アルフレッドは真顔だった。
笑ってはいない。笑ってはいないのだが、なぜか少しだけ腹が立つ。
「とにかく、終業式が終わったら速やかに出発します。正門は使わず、裏門から。余計なことは誰にも言わず、煙のように消えるのよ」
「念のため申し上げますが、お嬢様」
「何かしら」
「夏季休暇へ向かわれるだけでございます」
「分かっていますわ」
「逃亡ではございません」
「分かっていますわよ」
「でしたら、なぜ煙のように」
「念には念を、ですわ」
「承知いたしました」
結局、アルフレッドはいつもの無表情のまま頭を下げた。さすがは有能な補佐役で、こういうときは話が早くて実に助かる。
「別邸の準備は?」
「すでに管理人へ連絡済みでございます。客室を含めた清掃、寝具の手入れ、食料の手配も進めております」
「客室?」
「旦那様と奥様も数日遅れて向かわれる予定でございますので」
「ああ、そうでしたわね」
両親も来るし、モフもいる。食事は使用人が作ってくれて、掃除も洗濯もしなくていい。湖のそばで、好きなだけ眠ることができる。
完璧ではないか。
「きゅう~」
足元から声がした。
モフが待ちきれないとでも言うように、私の足へ前脚をかけている。
抱き上げて、ふかふかの首筋へ顔を埋めた。
「もうすぐよ、モフ。あちらへ着いたら、一日中ゴロゴロして、美味しいものを食べて、飽きるまでお昼寝しましょうね」
「きゅう!」
夏休みにやりたいことは、特にない。だからこそ素晴らしいのである。
お金はあるし、別邸もある。食事は誰かが作ってくれて、掃除も洗濯もしなくていい。
何もしないための準備だけは、完璧だった。




