第18話 中間試験と、遠い異国の言葉
六月に入ると、学園の空気は少しずつ張り詰めたものへと変わっていった。
入学して最初の関門、中間試験が近づいていたからである。
歴史、地理、法学、数学、領地経営論。
このあたりは、特に問題はない。
前世の社会人経験や生活感覚が下地にあるし、日々の講義も普通に聞いている。帳簿の計算に至っては、前世で家計簿と睨み合っていた日々に比べれば、数字が綺麗に合ってむしろ爽快ですらあった。
問題は――語学である。
「……ソフィア様」
「はい、レティシア様」
「この、動詞の語尾に『ル』がつく場合と『ス』がつく場合の違いを、もう一度教えていただいてもよろしくて?」
放課後の図書室、閲覧席の一角。
私、エミリー様、ソフィア様の三人は、机の上に教本とノートを広げていた。
若い身体のおかげか、耳も発音も絶好調である。
公用四か国語の日常会話くらいなら難なく聞き取れるし、こちらから話すことにも困らない。家庭教師からも、発音や抑揚については褒められてきた。
だが、試験の文法問題となると話は別だった。
前世の日本語だってそうだ。
普段は何の不自由もなく話し、本も読んでいるのに、いざ学校の国語の試験で「下一段活用と五段活用の識別」だの「係助詞の結び」だのを問われると、途端に面倒になる。
通じているのだから、それでよくないだろうか。
言葉として感覚で身についている分、改めて「主語が複数形で過去の出来事を表す場合は語尾が変化する」などと分解されると、かえって混乱するのである。
「主語が複数の場合で、過去の出来事を表すときは語尾が『ス』に変化いたしますわ。ほら、ここです」
ソフィア様が指先で教本の一節を示してくれる。
「ああ……なるほど。喋るときは自然と口から出るのに、文字で理屈を問われると途端に分からなくなりますのね」
「ふふ。感覚で話せるレティシア様だからこそのお悩みかもしれませんわね」
ソフィア様が笑う。
「私は、領地経営論の数字の並びを見ているだけで頭が痛くなりますもの」
「そちらなら、実家の果樹園を思い浮かべると分かりやすいですわよ。収穫した林檎の数から、運賃と木箱の代金を引いて……」
「あ、それなら分かる気がいたします」
「では、こちらは私がお手伝いいたしますわ」
三人で持ち寄り、教え、教えられる。
分かる者が、分からない者へ教える。
なかなか効率のよい勉強会だった。
「……随分と熱心に励んでいるようだね」
ふいに、頭上から落ち着いた声がした。
見上げると、眼鏡をかけた少年――宰相子息のユリウス様が立っていた。
腕には、分厚い外交記録の原書を二冊抱えている。
「ユリウス様。ご機嫌よう」
私はペンを置き、図書室なので小さく会釈をした。
エミリー様とソフィア様も、それに続く。
「邪魔をしてしまったかな。隣の棚へ本を戻しに来たのだが、聞き覚えのある声がしたのでね」
「いいえ。中間試験の勉強をしておりましたの」
「西方諸国との交易公用語か」
ユリウス様は、私の開いていた教本へ視線を落とした。
「会話と筆記の文法構造に少し隔たりがある。感覚で覚えた者ほど、記述試験では躓きやすい言語だ」
「まさに、今それで困っておりましたの」
「三人称複数の例外規定かな?」
「ええ」
「そこは文法規則として丸暗記するより、主語となる人物の身分による敬意の度合いで分けると覚えやすい」
「敬意の度合い、でございますか?」
「そうだ。古い時代の宮廷作法が、そのまま語形変化に残っているんだ。上位者を示す場合には、特定の音を避ける慣習があった。それが現在の語尾変化にも残っている」
「……なるほど」
私は教本へ目を戻した。
単なる例外として覚えようとするから、ややこしかったのだ。
昔の宮廷作法が理由だと分かれば、ずっと覚えやすい。
「それなら、こちらの例文も同じ理由ですの?」
「ああ。そちらはさらに古い形が残っている。今の会話ではほとんど使わないけれど、正式な外交文書ではまだ使われるね」
「だから試験には出るのですね」
「残念ながら」
ユリウス様がわずかに笑った。
なるほど。
話せるのに、なぜこんなものまで覚えなければならないのかと思っていたが、外交文書で使うのであれば仕方がない。
公爵家を継げば、まったく無縁とも言えないだろう。
「とても分かりやすかったですわ。ありがとうございます、ユリウス様」
「役に立てたなら何よりだ」
ユリウス様は空いている隣の席へ目を向けた。
「もしよければ、このあとの外交文書の慣用表現も――」
「ありがとうございます。でも、まずはこちらを三人で解いてみますわ」
せっかく教えてもらったのだから、一度自分で使ってみた方がいい。
それで分からなければ、また教本を調べればよい。
「そうか。では、邪魔をしてはいけないね」
「助かりましたわ」
「試験、頑張って」
「ユリウス様も」
ユリウス様は本を棚へ戻すと、そのまま図書室の奥へ歩いていった。
私は再び教本へ目を落とす。
「では、さきほど教えていただいた規則で、こちらを解いてみましょうか」
「はい」
「ええと……この場合は、相手が上位者ですから……」
ソフィア様が教本と問題を見比べる。
私も例文を読む。
さっきまで意味不明だった語尾の変化が、今度はきちんと理由のあるものに見えた。
「……『ス』ですわね」
「正解です、レティシア様!」
「やっと分かりましたわ」
私は思わず息を吐いた。
理解してしまえば、そこまで難しい話ではない。
ただし。
「これを全部、試験までに覚えるのですよね」
「そうなりますわね」
「……やっぱり語学は面倒ですわ」
二人が笑った。
私も笑いながら、次の問題へペンを進める。
話せるのだから文法など知らなくてもいい、と言いたいところではある。
けれど、試験に出るなら仕方がない。
必要な分くらいは覚えておこう。
友人と机を囲み、分からないところを教え合う。
途中で思いがけず、分かりやすい説明まで手に入った。
あとは、自分で覚えるだけである。
私の学園生活は、今日も平和だった。




