第16話 歴史の授業と、領地の足元
二時限目の歴史の講義。
教室には、羊皮紙をめくる衣擦れの音と、教師の落ち着いた声だけが静かに響いていた。
「……このように、現国王陛下がまだ学園に在籍しておられた頃、王家の方々であっても試験の採点や評価において、一切の特別扱いを求められぬよう厳格な通達が出されていたと記録に残っております」
教壇に立つ年配の教師が、眼鏡の奥の目を細め、誇らしげに語る。
教室の生徒たち――エミリー様やソフィア様も含め、皆が感銘を受けたように真剣な眼差しで黒板の文字を書き留めていた。
王家の高潔さと公平さを示す、実に美しい逸話である。
その中で、私のペン先だけが、ノートの上でほんの一瞬だけ止まった。
「陛下は当時より己に厳しく、学問に対して誠実であられたのです」
「…………」
背筋を伸ばし、姿勢を正したまま、私は静かに呼吸を整える。
脳裏をよぎったのは、昨日あの棚の奥で見た、あまりにも几帳面な手書きの記録だった。
『歴史試験 追試』
『本人、再試験前日に腹痛を訴える』
『医務室確認。異常なし』
(……お腹が痛くなってしまったのなら、仕方ありませんわよね)
誰だって追試の前日は憂鬱になるし、お腹の一つも痛くなりたくなる。
まだ学生だった頃の男の子が追試から逃げ出したくなり、医務室へ駆け込んで異常なしと書かれてしまったのだとしても、人間らしくて微笑ましいくらいだ。
とはいえ、それを口にする必要はどこにもない。
知らなかったことにして、胸の奥へそっとしまっておく。
余計な波風を立てないためには、それが一番である。
「レティシア様? 何か気になられますか?」
隣の席のエミリー様が、小声で首を傾げた。
「いいえ。とても素晴らしいお話だと思いまして」
私は穏やかに微笑み、何食わぬ顔で板書をノートへ書き留めた。
◇
昼休み。
中庭の噴水のそばにある丸テーブルで、私、エミリー様、ソフィア様の三人はお弁当を広げていた。
公爵家の料理人が持たせてくれた食事は、今日も申し分のない味だった。
「そういえばレティシア様、昨日の放課後に図書室へ行かれたと伺いましたけれど」
ソフィア様がお茶を口に含みながら尋ねてきた。
「ええ。講義で街道の維持について触れられていましたでしょう? もう少し詳しい実務書がないか探していたのです」
「街道の維持ですか。ずいぶん難しそうな本をお読みになるのですね」
「難しそうというより、生活に直結する話ですから。エミリー様のご実家の果樹園でも、収穫物を運ぶための道をお使いになるのでしょう?」
話を振られたエミリー様が、深く頷いた。
「ええ、とても大切です。林檎の収穫期に道がぬかるんで荷車が立ち往生すると、実が傷んで売り物にならなくなってしまいますもの。ですから実家では、雨季に入る前に必ず道を点検して、砂利を補充させているそうです」
「先に手入れをしておくのね」
「はい。大きな穴が空いたり道が崩れたりしてから職人さんを呼ぶと、費用も日数も余計にかかりますから。父も『壊れる前に手を打つのが一番安上がりだ』と申しておりました」
現場を抱える家ならではの、極めて真っ当な知恵だった。
ソフィア様も「私の実家の領地でも、川沿いの道を定期的に補修していると聞いたことがありますわ」と頷いている。
(壊れる前に手入れをする、か……)
至極当たり前の話だが、前世の記憶がある身には痛いほどよく分かる。
給湯器も、水回りも、ガス設備も、壊れるときは住人の財布の都合など待ってはくれない。
壊れてから慌てて業者を呼べば、緊急の出費に頭を抱えることになるのだ。
(そういえば……セレイアではどうなっているのかしら?)
あの土地は先代から受け継がれたもので、私が生まれるずっと前から管理人が運営している。
当然、何かしらの維持管理は行われているはずだが、具体的な仕組みまでは詳しく把握していなかった。
自分の土地として預かっている以上、現状がどうなっているのか、一度きちんと確認しておくべきかもしれない。
◇
放課後。
寄宿舎の居室へ戻ると、アリアが手早く着替えを手伝ってくれた。
長椅子へ腰を下ろすと、部屋で待っていたモフが膝の上へ飛び乗ってくる。
「きゅう」
「はいはい、お留守番ありがとうね」
温かな毛並みを撫でながら、私は控えていたアルフレッドへ声をかけた。
「アルフレッド、少し聞きたいことがあるのだけれど」
「はい、お嬢様。何でございましょう」
「セレイア領内の街道についてよ。あそこの道は、普段どのように点検や補修がされているのかしら?」
アルフレッドは特に驚いた風もなく、淡々と手帳を開いた。
「セレイア領の街道管理につきましては、春の雪解け後と、秋の長雨の前の年二回、領地の管理人が巡回して点検を行っております。路面の凹凸や側溝の清掃などは、その都度、現地の保全人足を雇って手入れをさせております」
「手入れのための費用は?」
「領地の維持管理費として、毎年の予算にあらかじめ計上されております。突発的な大雨などで小規模な崩落が起きた場合も、予備費の枠内でおおむね処理できる規定となっております」
やはり、きちんとした仕組みがすでに整っていた。
長く管理されてきた土地なのだから、それも当然なのだろう。
「なるほど。普段の維持については、しっかりと手が打たれているのね」
「左様でございます」
「では――」
私は前世で、自宅のあちこちが次々と傷んでいった時期の記憶を思い返しながら、もう一段だけ問いを重ねた。
「もし、普段の予算では賄えないような大きな修繕が必要になった場合はどうなるのかしら? たとえば、湖沿いの石積みが広範囲に崩れたり、主要な橋が傷んで架け替えが必要になったりした時よ。それが二つ重なったりしたら、予備費だけで対応できますの?」
アルフレッドは手帳から視線を上げ、静かに考えを巡らせた。
「……大規模な石垣の改修や橋梁の架け替えとなりますと、単年の予備費では不足する可能性がございます。その際は本邸へ報告が上がり、公爵家の本会計から特別支出として補填する規定になっております」
「本家の財布頼み、ということね」
「制度上はそのようになっております。ただし、セレイアの財政を独立して健全に保つという観点から見ますと、大規模修繕に備えた資金の手当てについては、検討の余地があるやもしれません」
「急ぐ話ではないけれど、どのような備えがあるのかは把握しておきたいわ。管理人に、過去十年ほどの修繕履歴と、橋や主要な石積みの現在の状態についての報告書をまとめてもらえるかしら」
「承知いたしました。次回の定期便にて取り寄せるよう手配いたします」
アルフレッドは手帳に手早く書き留め、一礼した。
新しく制度を作るとか、改革を起こすといった大層な話ではない。
ただ、生活の基盤がどう守られているのか、足元に穴が開いていないかを確かめておきたいだけだ。
「ありがとう。報告が届いたら、また確認させてちょうだい」
「かしこまりました」
用件を終え、私は深く長椅子に身体を預けた。
アリアが運んできてくれた温かいお茶の香りが、部屋の中に柔らかく広がる。
膝の上のモフを撫でながら、窓の外を眺めた。
学園での勉強も、領地の実務の確認も、一つずつ知っていくのは案外楽しいものだった。
今日のところは、これで十分である。




