第15話 棚の奥の記録と、再現できない隠しイベント
手にした冊子を、私は改めて眺めた。
表紙には題名もなければ、持ち主の名前もない。
紙はすっかり黄ばんでいて、角も擦れて丸くなっている。図書室の蔵書なら、どこかに管理用の印くらいありそうなものだが、それも見当たらなかった。
「……図書室の本ではないのかしら」
誰かの忘れ物だろうか。
とはいえ、これだけ古びているところを見ると、昨日今日置き忘れられたものではなさそうだ。
私は表紙を開いた。
最初の頁には、日付らしき数字と、いくつかの家名が並んでいた。
その横には金額。
さらに、科目名と数字。
『ベルク子爵家 金貨二十枚』
『歴史 五点加算』
『次回試験も同様』
「…………?」
何かの会計記録だろうか。
けれど、会計記録にしては妙だ。
次の行へ目を移す。
『ローデン伯爵家 金貨三十枚』
『数学 八点加算』
『追試免除』
その下には、さらに小さな字で、
『父親より卒業時の推薦について依頼あり』
と書かれていた。
「…………まあ」
どうやら私は、あまりよろしくないものを見つけてしまったらしい。
もう少し確認するために、頁をめくる。
同じような記録が続いていた。
金貨十枚。
二十枚。
三十枚。
中には宝飾品らしき記載もある。
そして、その対価と思われるもの。
試験の加点。
追試の免除。
素行記録の削除。
推薦状への便宜。
ここまで読めば、さすがに意味は分かる。
「……賄賂の覚え書き、ですわよね」
思わず声が小さくなった。
誰が書いたものなのかは分からない。
けれど、内容からして、当時この学園で生徒の成績に関わる立場にあった人物だろう。
これは私が持ち帰って、面白半分に眺めていいようなものではない。
そう思って冊子を閉じかけたとき、頁の下の方に見覚えのある文字があった。
『第一王子殿下』
私は手を止めた。
現在の第一王子殿下ではない。
日付を見る限り、ずっと昔の記録だ。
ということは。
「……陛下?」
現国王が、まだ学園の生徒だった頃の記録なのだろうか。
金額は書かれていなかった。
加点の記録もない。
代わりに、
『歴史試験 追試』
とある。
その下には、
『王家より、本人の成績には一切手を加えぬよう通達あり』
と書かれていた。
「まあ」
さすが王家である。
身内だからと特別扱いを求めるどころか、むしろ不正が起きないよう、わざわざ念を押していたらしい。
私は少し感心しながら、その下の一文を読んだ。
『本人、再試験前日に腹痛を訴える』
「…………」
さらに、その下。
『医務室確認。異常なし』
「…………」
一度、冊子から目を上げた。
静かな図書室だった。
遠くで誰かが本を閉じる音がした。
私はもう一度、頁を見る。
『医務室確認。異常なし』
「…………まあ」
見なかったことにしよう。
これは汚職とは何の関係もない。
当時の第一王子殿下が、追試の前日にたまたまお腹が痛くなっただけである。
たまたま医務室では何の異常も見つからなかっただけだ。
それ以上のことを考えてはいけない。
私は静かに冊子を閉じた。
「レティシア様?」
声をかけられて振り返ると、クララがこちらへ歩いてくるところだった。
「閉館のお時間が近づいておりますけれど……どうかなさいましたか?」
「ええ。少し困ったものを見つけてしまったようなの」
「困ったもの?」
「この冊子、図書室の蔵書かどうか確認していただける?」
「はい」
クララは冊子を受け取ると、表紙や背を確認した。
やがて首を傾げる。
「蔵書印がありません。管理番号もありませんね」
「やはり、図書室の本ではないのね」
「はい。少なくとも、通常の蔵書ではないと思います。どちらにあったのですか?」
「そこの棚の奥よ。本を戻したとき、隣の本が傾いて、その後ろに挟まっているのが見えたの」
クララが棚を見る。
「そんなところに……」
「かなり昔からあったのかもしれないわね」
「中には何が?」
私は少し考えた。
「昔の記録のようなのだけれど、内容が少々特殊なの。私では判断できないから、大人に相談しますわ」
「分かりました。では、見つかった場所はこちらで記録しておきます」
「お願い」
クララから冊子を返してもらい、私は鞄へ入れた。
勝手に持ち帰ることには少し抵抗があったが、内容を知ってしまった以上、元の棚へ戻して終わりというわけにもいかない。
寄宿舎へ戻ると、私はすぐにアルフレッドを呼んだ。
「お嬢様。お呼びでしょうか」
「ええ。図書室で妙なものを見つけたの」
机の上へ冊子を置く。
アルフレッドは表紙を見た。
「こちらは?」
「棚の奥に挟まっていました。図書室の蔵書ではないそうよ」
「中身はご覧になりましたか」
「何の冊子か分かりませんでしたから、少しだけ」
アルフレッドが頁を開く。
一枚。
二枚。
三枚。
その表情が変わった。
「……これは」
「やはり、まずいものよね?」
「はい」
アルフレッドはさらに頁を確認していった。
途中で、ふと手が止まる。
「…………」
私は黙って紅茶を飲んだ。
アルフレッドがこちらを見る。
「お嬢様」
「はい」
「こちらの頁は――」
「存じません」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「でしたら、なおさら問題ありませんわね」
「…………左様でございますね」
アルフレッドは何事もなかったように頁をめくった。
大人というものは、時として知らないふりをする技術も必要なのである。
やがて最後まで確認したアルフレッドが、冊子を閉じた。
「旦那様へお知らせいたします」
「お願い。私が持っていても仕方がないもの」
「ただ、おそらくではございますが、こちらは現在進行中の不正ではございません」
「あら?」
「記載されている年代に、学園で成績に関する不正が発覚したことがございます。関与した教師は、すでに学園を解雇されていたはずです」
「そうなの?」
「はい。ただし、当時判明したのは金品の授受と成績操作が行われていたという事実までで、詳細な記録は発見されなかったと記憶しております」
私は机の上の冊子を見た。
「では、これがその詳細なのかもしれないのね」
「可能性は高いかと」
「それなら、なおさらお父様にお願いした方がよさそうね」
「はい。旦那様から学園側へ確認していただくのがよろしいでしょう」
「そうしてちょうだい」
これで私の仕事は終わりである。
誰の親がいくら渡したのか。
誰の成績が操作されたのか。
今になってそれをどう扱うのか。
そういったことは、大人たちが考えればいい。
私は明日も授業があるし、セレイアの街道についてもまだ調べたいことが残っている。
「では、私は夕食までモフと遊んできますわ」
「承知いたしました」
席を立つ。
部屋を出ようとしたところで、アルフレッドがもう一度冊子を開いた。
たまたま開いたのだろう。
たまたま。
「…………」
私は振り返らなかった。
『医務室確認。異常なし』
――忘れよう。
世の中には、知らなくてもよかったことというものがある。
◇
翌朝。
教室へ向かう廊下を歩いていると、後ろから猛烈な勢いで足音が近づいてきた。
「レティシア様!!」
振り返る。
ミレーヌだった。
「おはようございます、ミレーヌ様」
「昨日、図書室へ行かれたそうですね!?」
「ええ」
「そこで古い本を見つけたとか!」
早い。
昨日の夕方の話である。
「本というほどのものではありませんわ。古い冊子です」
「どこにありました!?」
「はい?」
「どの棚ですか!?」
ミレーヌが詰め寄ってくる。
「上から何段目!? 何時頃!? その前にどの本を触りました!?」
「……なぜ、そのようなことを?」
ミレーヌは答えなかった。
代わりに拳を握り締めた。
「やっぱり……あったのね」
「何が?」
「隠しイベントよ!」
「はい?」
「図書室! 放課後! 棚の奥に隠された古い本! どう考えてもイベントアイテムじゃない!」
何を言っているのだろう。
「ただの古い記録でしたわよ」
「そんなわけないでしょう!」
怒られた。
「棚の奥から出てきたんでしょう!?」
「ええ」
「普通の本じゃないんでしょう!?」
「図書室の蔵書ではありませんでしたわね」
「ほら!!」
何が「ほら」なのか分からない。
「それで!? 何が書いてあったんですか!?」
「昔の教師の覚え書きのようでしたわ」
「…………は?」
「すでに大人へ預けました」
「…………」
ミレーヌが固まった。
「古代魔法とか」
「ありませんわね」
「秘密の契約とか」
「ありません」
「王家に伝わる何かとか!」
一瞬だけ、頭の中に文字が浮かんだ。
『医務室確認。異常なし』
「…………」
「何ですか今の間は!!」
「何でもありませんわ」
「絶対何かあったでしょう!?」
「昔の記録です」
「怪しい!!」
怪しいのは、どちらかといえば目の前のミレーヌの方だと思う。
「それでレティシア様! どの棚ですか!?」
「昨日、クララに場所を伝えてありますから、図書委員の方に尋ねれば分かると思いますけれど」
「分かりました!」
言うなり、ミレーヌは走り去っていった。
「廊下は走らない方がよろしいのでは――」
もう聞こえていない。
私はしばらくその背中を眺めた。
朝から元気なことである。
◇
その日の放課後。
図書室では、一人の少女が書架の前に立っていた。
「ここね……」
ミレーヌは棚を睨んだ。
クララから場所は聞き出した。
六番目の書架。
奥から三列目。
上から四段目。
レティシアが戻した本も確認した。
「これを……戻す」
ことり。
何も起きない。
「…………」
一度抜く。
もう一度戻す。
何も起きない。
「時間?」
昨日レティシアが図書室へ来たのは放課後。
今も放課後だ。
「角度?」
本を少し斜めにする。
戻す。
何もない。
隣の本を動かす。
何もない。
さらに隣。
何もない。
「……おかしい」
ミレーヌは棚の奥へ手を伸ばした。
何もない。
「オルコット様」
「ひゃっ!」
後ろから声をかけられ、ミレーヌが飛び上がった。
クララが立っていた。
「先ほどから、何をなさっているのですか?」
「条件を確認しているのよ」
「条件?」
「同じ場所で、同じ本を戻しているのに出ないの」
「何がですか?」
「隠しアイテム」
「……?」
クララが首を傾げる。
「昨日レティシア様が見つけられた冊子でしたら、もうそこにはありませんけれど」
「それは分かってるわ!」
「では、何をお探しなのでしょう?」
「二個目よ!」
「二個目」
「一個あるなら、他にもあるかもしれないでしょう!」
「……そうでしょうか」
「あるの!」
ミレーヌは再び本を抜いた。
戻す。
何も起きない。
「違う……」
もう一度。
「絶対に何か条件があるはずなのよ……」
クララは困ったように、その様子を見ていた。
◇
翌朝。
朝食を終え、エミリーとソフィアと一緒に教室へ向かっていたときだった。
どこか遠くから、聞き覚えのある声が響いた。
「キーーーーーーーーッ!!」
私は足を止めた。
エミリーも止まった。
ソフィアも止まった。
三人で声のした方向を見る。
「……ミレーヌ様でしょうか」
エミリーが呟く。
「おそらく」
私は答えた。
ソフィアが感心したように言った。
「今日もよく響きますわね」
「ええ」
肺活量は素晴らしい。
何があったのかは知らないけれど、今日も元気そうで何よりである。
私は再び歩き出した。
今日は午前中に歴史の授業がある。
そのことを考えた瞬間、なぜか昨日読んだ一文が頭に浮かんだ。
『歴史試験 追試』
続いて、
『本人、再試験前日に腹痛を訴える』
そして最後に、
『医務室確認。異常なし』
「…………」
「レティシア様?」
「何でもありませんわ」
忘れよう。
本当に、忘れよう。




