第14話 図書室の出会いと、棚の奥の一冊
翌日の放課後。
私は予定通り、学園の中央に位置する大図書室へと足を運んでいた。
石造りの重厚な扉を押し開けると、高い天井まで届く無数の書架と、古い紙とインクの落ち着いた匂いが私を迎えてくれた。
高いアーチ窓からは西日が柔らかく差し込み、静かな空気の中に細かな埃がきらきらと舞っている。
前世でも、休日にふらりと立ち寄る図書館の空気は好きだったが、この歴史ある学園の図書室は、もはやひとつの荘厳な迷宮のようだった。
「……広いわね」
思わず小さく呟いてしまった。
広大なのは結構なことなのだが、目当ての本がどこにあるのか見当もつかない。
棚の端に掲げられた分類板を眺めてみるものの、「歴史」「地理」「神学」「法学」といった大まかな区分しか書かれておらず、私が読みたい実務的な街道整備や物流の記録が、どこに収められているのか分からないのだ。
あちらこちらの通路を歩き回り、何度目かの分類板の前で首を傾げていた、その時だった。
「あ、あの……」
隣の通路から、ひそやかな声がかけられた。
振り返ると、胸元いっぱいに分厚い本を抱え、大きな丸眼鏡をかけた小柄な令嬢がおずおずと立っていた。
制服の左腕には、図書委員を示す青い腕章が巻かれている。
「何か……お探しでしょうか?」
「まあ、ご親切にありがとう」
私は静かに微笑み、会釈を返した。
声を立ててはいけない場所だからだろう。囁くような声で話しかけてくれるあたり、いかにも図書委員らしい。
「講義で習った、領地内の街道整備や特産品の流通について、もう少し実務的な記録を読んでみたいのですけれど……どの棚へ行けばよいのか分からなくて」
「街道と……物流、ですか?」
丸眼鏡の奥の瞳が、ふっと驚いたように見開かれた。
一年生の令嬢が探す本といえば、詩集や流行の恋物語、あるいは作法の手引書が多いのだろう。公爵令嬢が泥臭い土木と流通の専門書を探しているのだから、不思議に思われても無理はない。
だが次の瞬間、彼女の瞳にぱっと熱い光が灯った。
「そ、それでしたら……! 『地理』ではなく、あちらの『内政実務記録・経済史』の第六書架の奥です。あそこには、中央官庁の技官が過去にまとめた道路補修の報告書や、地方ごとの運河開削記録も揃っていますので!」
さっきまでの遠慮がちな態度はどこへやら。
声の大きさこそ図書室に合わせて抑えられているものの、言葉の速度が一気に跳ね上がった。
「特に、三十年前にクライン辺境伯領でまとめられた『地方街道維持と荷車輪幅規格に関する覚え書き』は名著です。舗装に使う砂利の配合から、季節ごとのぬかるみ対策、荷馬車の重量制限と罰則規定まで、現場の数字が克明に記録されていて……あっ」
一気にまくし立てたところで、彼女は我に返ったらしい。
両手で口元を押さえ、みるみる顔を赤くした。
「も、申し訳ありません……! 私、本の話になると、つい……」
「いいえ、素晴らしいわ」
私は心からの感嘆を込めて微笑んだ。
専門知識を淀みなく語れる人というのは、いつの時代も実に頼もしい。
「とても興味深いですわ。ぜひ、その覚え書きを拝読したいです。ご案内していただけるかしら?」
「は、はい……! 喜んで……!」
案内された棚の前で、彼女は迷うことなく三冊の本を抜き出してくれた。
胸元の名札を見ると、クララ・フォン・ベルガーと書かれている。
「クララ様、とお呼びしてもよろしいかしら」
「は、はい。一年生のクララ・ベルガーと申します。レティシア様……」
「助かりましたわ、クララ様。本がとてもお好きなのね」
「はい……本を読んでいる時が、一番落ち着きますので……」
少しはにかむように笑うクララ様へ改めてお礼を告げ、私は閲覧用の長机へ本を運んだ。
それからの時間は、実にあっという間だった。
クララ様が勧めてくれた『地方街道維持と荷車輪幅規格に関する覚え書き』は、期待以上に面白かった。
道を一本敷設するのに、どれだけの人手と砂利が必要なのか。
雨季に道が崩れた場合、補修費用を誰が負担するのか。
荷馬車の車輪幅がばらばらだと、轍も不揃いになり、かえって道が傷みやすくなること。
さらに、通行税を取る関所を増やしすぎれば、商人たちは税を嫌って別の道へ流れ、結果として街道の維持費すら回収できなくなるという失敗例まで、具体的な数字とともに記されていた。
(……なるほどねえ。道というのは、造ってしまえば終わりではないのね)
当然といえば当然なのだが、規模が大きくなれば維持にかかる費用も大きくなる。
そこでふと、前世で暮らしていた家のことを思い出した。
築年数を重ねるにつれて、水回りが怪しくなり、給湯設備が故障し、ある日突然ガスコンロがエラーを吐いて火を消す。
ひとつ直して安心した頃に、今度は別の場所が悲鳴を上げる。
そして設備というものは、こちらの財布事情など考えて壊れてはくれない。
(そうなのよ。壊れてから慌てると大変なのよね……)
十二歳の公爵令嬢が、異世界の図書室で前世の給湯設備を思い出すことになるとは思わなかった。
けれど、理屈は同じである。
セレイア領では静かな景観を守るため、大規模な開発を避けている。だからといって、今ある街道まで放っておいていいわけではない。
雨で傷んだ場所を早めに補修する。
橋や側溝も定期的に確認する。
毎年の収支に余裕があるからといって、その分をすべて使えるお金だとは考えず、将来の補修に備えて別枠で積み立てておく。
(修繕積立金みたいなものね)
そう考えると、一気に馴染み深くなった。
机の上のノートへ、思いついたことや確認したい数字をさらさらと書き留めていく。
次の月次報告では、現在の街道や橋の状態についても管理人に確認してもらおう。
今すぐ何かを造る必要はない。
壊れていないなら、それでいい。
ただ、壊れる前に状態を知っておくことはできる。
「……うん。これは聞いておいた方がいいわね」
ノートの端に小さく印をつけた。
ふと窓の外を見ると、西日が茜色へと変わっていた。
間もなく、図書室の閉館を告げる静かな鐘の音が響く。
「もうそんな時間……」
借りていく一冊を決め、残りの二冊を元の棚へ戻しに向かった。
静かな書架の間を進み、第六書架の奥へ。
クララ様が抜いてくれた場所へ、背表紙を揃えて丁寧に一冊目を差し込む。
続いて、もう一冊。
カチリ、と本が収まった、その時だった。
隣に並んでいた、ひときわ分厚い羊皮紙の綴じ本が、わずかに斜めへ傾いた。
「あら」
倒れないよう手を添えて元へ戻そうとすると、その向こう――棚の奥に、何かが見えた。
「……?」
壁とのわずかな隙間。
薄暗い陰の中に、何かが挟まっている。
目を凝らしてみると、一冊の薄い冊子だった。
他の本のように革や布で装丁されておらず、色褪せた硬い紙で素朴に綴じられている。
背表紙には、文字らしいものも見当たらない。
しかも、ずいぶん埃をかぶっている。
誰かが棚の奥へ落としたまま忘れられたのか、それとも何かの拍子に本と本の間から滑り込んでしまったのか。
少なくとも、最近置かれたものには見えなかった。
私はそっと指先を伸ばし、その薄い冊子を引き抜いた。
ぱらぱらと埃が落ちる。
咳き込まないよう少し顔を背けてから、表面についた埃を指先で軽く払った。
古い。
けれど、捨てられた紙束というわけでもなさそうだ。
夕暮れの光にかざし、表と裏を眺めてみる。
「……あら? これは何かしら?」
開くこともなく、ただその古びた冊子を手にしたまま、私は薄暗い図書室の隅で小さく首を傾げた。




