第12話 春の学術演習と、謎の泥人間
春季学術調査演習の当日。
学園近郊の自然公園は、青々とした木々と涼やかな風に包まれ、絶好の演習日和となっていた。
集合場所の広場で簡単な点呼を終えたあと、第三班の三名は、木陰で丸くなって地図を広げた。
同級生のエミリー様とソフィア様は、どちらも読書が好きな大人しい令嬢だ。
公爵令嬢である私に対して最初は恐縮しきりだったが、「今日は同じ班の仲間ですから、楽になさってくださいね」と告げると、少しだけ表情を和らげてくれた。
「課題の薬草は三種類ですね。月見草の亜種、鈴蘭草、それに岩肌苔」
ソフィア様が指先で地図をなぞる。
「小川沿いに鈴蘭草が群生しているそうですから、そちらから回るのはいかがでしょう?」
「いい案ですわね」
私は地図の高低差を見ながら言葉を添えた。
「そこから時計回りに岩場を抜けて、北の林で月見草を採取すれば、一度も同じ道を通らずに戻れそうですわ」
「まあ……! 本当ですわ、レティシア様。それなら坂道も緩やかになります!」
エミリー様が顔を輝かせ、画板を抱え直した。
「では、私が採取した草のスケッチと記録を担当いたしますね」
「助かりますわ。採取の手順は私が確認いたしますね。無理に急がず、足元に気をつけて参りましょう」
誰かが号令をかけるでもなく、三人で持ち寄った知恵を並べて、行動は極めて円滑に進んだ。
私は動きやすい特製の深緑の外套を羽織り、足首を痛めない柔らかな革靴で、整備された山道をサクサクと進む。
小川のほとりで鈴蘭草を見つけて採取し、エミリー様が手早く美しい筆致でスケッチを仕上げる。
岩場で苔を削り取り、北の林で最後の月見草を採集したところで、時計の針はまだ正午前を指していた。
「無事に揃いましたわね」
「素晴らしいですわ。お昼前にすべて終わるなんて」
「ええ。午後の集合まで時間がありますから、あそこの見晴らしのよい丘でお昼にいたしましょうか」
小高い丘の上、風通しのよい大きな樫の木の木陰に陣取る。
私はアリアに預けていた荷物から、撥水加工の施された厚手の敷物を取り出して広げ、折りたたみの携帯椅子を三人分組み立てた。
「まあ、椅子まで……!?」
「地面に直に座りますと、腰が冷えてしまいますもの。さあ、どうぞ」
さらに、保温性の高い魔導水筒から、湯気の立つ温かいハーブティーを陶器のカップへと注ぐ。
公爵家の料理長特製のランチボックスを開けると、彩り豊かなサンドイッチが整然と並んでいた。
薄切りのローストビーフに粒マスタード、スモークサーモンとクリームチーズ、焼きたてのオムレツ。
エミリー様とソフィア様が感嘆の声を漏らす。
「我が家で持たせてくれたものですの。よろしければご一緒にいかが?」
「い、よろしいのですか……!?」
「ええ、たくさんありますもの。三人でいただいた方が美味しいですわ」
木漏れ日の下、温かい紅茶をすすり、絶品のサンドイッチを頬張る。
そよ風が頬を撫で、鳥のさえずりが聞こえる。
演習という名の、極上のピクニックであった。
◇
その頃。
第七班のミレーヌ・オルコットは、文字通り死闘を演じていた。
(ど、どうして……っ!? どうしてこうなるのよ……っ!?)
大型共同作業イベント。
カイル様とユリウス様との距離を縮める絶好のチャンス。
ミレーヌは朝から気合十分だった。
ゲームのヒロインらしく、可憐さをアピールするためにフリル付きのブラウスを着用し、足元には白い編み上げブーツを選んだ。
ゲームのシナリオでは、足場の悪い小道でヒロインがぬかるみに足を取られ、よろけたところをカイルが素早く抱き止める――という王道のハプニングイベントが存在するのだ。
(ここよ……! この辺りで足を滑らせて、『きゃっ!』って倒れ込めば……!)
前方を歩くカイルの背中を見定め、ミレーヌはわざとらしく足を崩そうとした。
だが。
現実はゲームのプログラム通りには作られていなかった。
彼女が踏み出したその足元は、見かけ以上に深く抉れた、本物の泥濘だった。
ズボッ!!
「ぎゃああああああああっ!?」
予定していた可憐な「きゃっ♡」はどこへやら、喉の奥から凄まじい絶叫が飛び出した。
足首まで泥に呑まれ、前のめりに派手に突っ込むミレーヌ。
『うわっ、オルコット!?』
『ぬかるみに足を取られたな! 掴まれ!』
抱き止められるどころか、カイルとユリウスの二人がかりで、泥沼から力任せに引っこ抜かれた。
白いブーツは茶色い泥団子と化し、可憐なフリルは泥水を含んで重たく垂れ下がり、自慢の桃色の髪には枯れ葉と土くれがべったりと張り付いていた。
『だ、大丈夫か……? 怪我はないか?』
『……は、はい……』
『無理に前を歩かなくていい。薬草の生息域は私が把握しているから、後ろをついてきなさい』
『……はい……』
ユリウスの冷静な指示に従い、カイルに泥だらけの背中を心配されながら、トボトボと山道を歩くミレーヌ。
好感度が上がったかどうか以前に、体力の限界だった。
足は痛い。泥は重い。お腹は減った。
「ハァッ……ハァッ……お昼……どこかで休憩を……」
「そうだな。あの丘の上に木陰がある。あそこで休もう」
カイルの提案に救われる思いで、ミレーヌは這々の体で丘を登った。
木陰へたどり着き、へたり込もうとした――その時だった。
「まあ、こちらのサンドイッチも美味ですわね。マスタードがよく効いています」
「本当ですわ、レティシア様。このハーブティーも、身体が芯から温まります……」
「食後には焼き菓子もございますから、ゆっくり召し上がってくださいね」
優雅な、あまりにも優雅な会話が耳に飛び込んできた。
ミレーヌが泥まみれの顔を上げると。
そこには、清潔な敷物の上に置かれた折りたたみ椅子に優雅に腰掛け、湯気の立つ陶器のカップを傾ける、レティシアの姿があった。
「…………」
ミレーヌの思考が真っ白に焼き切れた。
「あら?」
視線に気づいたレティシアが、カップを置いてこちらを振り向く。
そして、目を丸くした。
「まあ、ミレーヌ様。……ご機嫌よう?」
「…………」
「その……何か、大規模な地殻変動にでも巻き込まれましたの?」
「巻き込まれてないわよぉぉぉぉぉっ!!」
丘の上に、泥人間の絶叫が木霊した。
「な、何してるのよアンタぁぁぁっ!?」
「何、とは? 課題を終えて、昼食をいただいているところですけれど」
「課題を終えて!? もう!? まだ正午よ!?」
「皆で効率よく回りましたので。歩きやすい靴を履いていれば尚更ですわ」
レティシアの足元に光る、頑丈で泥一つついていない革靴。
それを見下ろしたあと、ミレーヌは自分の泥団子のような白いブーツを見た。
「な、なんで演習にお茶セットなんて持ってきてるのよぉぉぉっ!?」
「演習だからこそ持ってまいりましたのよ。山の上は冷えますもの。温かいお茶とお菓子は必須ではありませんこと?」
「山登りに携帯椅子と陶器のティーカップを持ち込む貴族がいるかぁぁぁっ!!」
喉が張り裂けんばかりに叫ぶミレーヌの横で、第七班の男子二名――カイルとユリウスが、目を丸くしてレティシアたちのピクニック空間を見つめていた。
「すげえ……。レティシア嬢、もう課題終わったのか?」
「ええ、カイル様。採取もスケッチも滞りなく。そちらは……少々、大変だったご様子ですわね」
「ああ……いや、オルコットが急にぬかるみに嵌まっちまってな……」
カイルが苦笑いを浮かべ、ユリウスは感心したように眼鏡の位置を直した。
「見事な段取りですね。我々は手探りで進んでいたため、少々難航していました。その準備の良さ、見習いたいものです」
「恐れ入ります。備えあれば憂いなし、と申しますもの」
レティシアは微笑み、それ以上二人と会話を広げようとはせず、視線を泥だらけのミレーヌへと戻した。
そして、アリアへ目配せをする。
「アリア、清潔な手拭いと、水筒のお湯を少しお分けして差し上げて」
「かしこまりました」
「お顔の泥を拭かれた方がよろしいですわ。風邪を引いてしまいますもの」
「っ……!」
差し出された温かい手拭いを受け取り、ミレーヌはギリギリと奥歯を噛み締めた。
屈辱。圧倒的敗北感。
ハプニングイベントを狙って泥人間になった自分と、完璧な装備でピクニックを満喫している悪役令嬢。
「か、勘違いしないでよね……! 手拭いは借りるけど、私は絶対に負けてないんだから……! 午後の部で大逆転してみせるんだからねっ……!」
涙目で顔の泥をゴシゴシと拭きながら、ミレーヌは捨て台詞を吐いた。
レティシアはといえば、不思議そうに首を傾げた。
「午後の部……? 午後は集合場所へ戻って、標本の整理と簡単な報告書の作成ですわよね?」
「そ、そうよ!」
「でしたら……勝ち負けはないのではなくて?」
「キーーーーーッ!!」
春の爽やかな青空の下、本日もミレーヌの絶叫が心地よく響き渡っていた。




