再履修(ヒール)の嵐、そしてノルマ達成
「はぁ、はぁ…っ、な、なんなのよ、あんた!」
密室に、エルフレイデの荒い呼吸が響く。
先ほどまで俺を「雑巾」だの「ゴミ」だのと罵っていた彼女の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
対する俺は、床に転がり、全身アザだらけ。
肋骨の二、三本はイッているだろうし、視界の端も切れて血が流れている。
だが、俺の意識はかつてないほどクリアだった。
…うん。この感覚、繁忙期の最終日に似ている。限界を超えた先にある、あの妙な全能感だ。
「…聖女様。もう終わりっすか?休憩時間は、まだ先ですよ」
「っ、ふざけないで!誰が…誰が休憩なんてっ!」
エルフレイデ様が俺の胸ぐらを掴み、その手のひらに淡い光を灯す。
【ヒール】
神聖なる癒やしの魔法。本来、感謝と共に受け取るべきその光が、今の俺にとっては残業確定のチャイムにしか聞こえない。
熱い波動が体を駆け巡り、折れた骨が繋がり、内出血が消えていく。
痛みは一瞬で引き、肉体は新品に戻った。
「…ふぅ…お、完璧なリカバリ。さすが筆頭聖女様、仕事が早い」
「…喜ぶのは今のうちよ。治したってことは、もう一度『やり直せる』ってことなんだから!」
彼女は再び、俺の腹部を殴り、蹴り、魔法の衝撃波を叩き込んできた。
壊しては治し、治しては壊す。
聖女が肩代わりした心の汚れが、暴力という形をとって俺に注がれていく。
だが、どれだけ繰り返しても、俺の目は死ななかった。
「…っ、どうして!?どうしてあんたは、許しを請わないの!?泣いて、喚いて、私に跪きなさいよ!」
「…いや、無理ですよ。だって、これ『仕事』でしょ?」
「は…?」
俺は、彼女の次の拳を、あえて避けることなく正面から受け止めた。
「俺、前世…あ~、その、前の場所で学んだんすよ。上司の怒りは、嵐と同じ。ただじっと耐えて、ノルマを達成すれば、いつか夜は明けるって」
「何を、訳のわからないことを!」
「聖女様、あなたも大変なんですね。千人分のストレスを溜め込んで、吐き出す場所がここしかない…いいですよ、全部出してください。俺のキャパは、まだ余裕ありますから」
俺は笑った。
血の混じった唾を吐き出し、あえて彼女に一歩近づく。
「さあ、次の『案件』回してください」
「…っ…ぁ…」
エルフレイデ様の瞳が、初めて大きく揺れた。
加害者であるはずの彼女の方が、まるで化け物を目の当たりにしたかのように後退る。
「…気持ち悪い。あんた、本当に人間なの?」
「さあ、どうでしょうね。ただの頑丈なサンドバッグですよ…おや、手が震えてますよ?筆頭聖女様が、そんな弱腰でいいんですか?」
「くっ…黙れ!黙りなさいっ!」
彼女は逃げるように、俺の胸に両手を押し当てた。
【ヒール】
今度は治すためじゃない。
溜まりに溜まった心の汚れを、魔法のパスを通じて直接、強制的に流し込もうとしてきたのだ。
頭の中に、彼女のドロドロとした感情が逆流してくる。
『汚い手で触らないで』
『神殿の年寄り共がうるさい』
『私はいつまで聖女を演じればいいの』
『ああ、壊したい、全部壊してしまいたい』
普通なら、精神が汚染されて発狂するレベルの邪念。
だが。
…あ、これ、カスタマーセンターのクレーム電話と同じだ。「誠に申し訳ございません」で聞き流せば、実質ダメージゼロだな。
「…ふむ。結構溜まってますね…でも、そんなもんですか?」
「っ、な、なっ!?」
「もっと深く、奥の方にある『汚い本音』まだあるんじゃないですか?ここなら誰も見てない。神様だって、今頃寝てますよ」
俺は、彼女の手を上から重ねるように、優しく、けれど逃がさないように握りしめた。
「全部、俺が『検品』してやりますから」
「…っ…」
エルフレイデ様の顔が、赤を通り越して真っ白になる。
恐怖。困惑。そして、微かな、蕩けるような安堵感。
一晩中続いた浄化の果て。
先に力尽きたのは、聖女の方だった。
彼女は俺の胸に顔を埋めたまま、荒い息をつき、ガクガクと膝をついた。
心の汚れを出し切り、空っぽになった彼女の体は、先ほどまでの攻撃性が嘘のように柔らかい。
「…はぁ、はぁ…もぅ…むり…もう、出ない…わよ…」
「お疲れ様です、エルフレイデ様。本日のノルマ、達成ですね」
俺は、ぐったりとした彼女を抱き留めた。
その瞬間、彼女の体から甘い香りが漂う。
暴力と癒やし。絶望と快感。
その境界線が、少しずつ崩れ始めていた。
「…あんた…明日も…また、来るから…」
「はい。お待ちしてますよ。定時の時間に」
彼女が部屋を出ていくとき、その足取りはおぼつかなかった。
結界が閉まる直前、彼女が振り返って俺を見たその瞳には、今までになかった湿り気が宿っていた。ように感じた。
…さて。次はどんな無理難題が飛んでくるかな。
俺は、ヒールで治りきらなかった微かな体の重みを感じながら、ふかふかのベッドに身を投げ出した。




