癒やし手の冷たい吐息
扉に手をかけ、優雅に去ろうとしていたフィオナの肩が、ピクリと止まった。
彼女はゆっくりと、信じられないものを見るような仕草でこちらを振り返る。その藍色の瞳には、動揺と、それを上回るほどの飢えが混ざり合っていた。
「今、なんと仰いましたの?カイル様」
「いや、だから。あなたも『汚れ』、溜まってますよね?俺はサンドバッグなんだから、遠慮しなくていいですよ。ここで吐き出していってください。俺が全部、受け止めますから」
俺はベッドの上で上体を起こし、彼女に向かって両腕を広げて見せた。
前世のブラック企業で学んだことの一つに、『優秀な部下や取引先ほど、不満を顔に出さずに溜め込む』という法則がある。
フィオナのヒールは完璧で、立ち振る舞いも上品だ。だが、その指先の震えや、エルフレイデ様への異様な対抗意識。
それは、彼女の心もまた、限界まで汚れで濁っている証拠に他ならない。
「ふふっ、あははは…」
フィオナが、突然口元を覆って笑い出した。
淑女の仮面が剥がれ落ち、その隙間から漏れ出すのは、ひどく熱く、ひどく冷たい、矛盾した感情の奔流。
「カイル様。貴方って、本当に、本当に、恐ろしい人。ただの『ゴミ箱』の分際で、私の心の中を覗き込もうなんて!」
彼女は音もなく駆け寄り、俺の胸ぐらを掴んでベッドに押し倒した。
エルフレイデ様のような暴力的な力強さはない。けれど、逃げ場を完全に封じるような、蛇のようなしなやかさ。
「いいでしょう。そこまで仰るなら、味わせて差し上げますわ。筆頭聖女様さえ知らない、私の真っ黒な本音を…」
彼女の額が、俺の額に触れる。
次の瞬間、俺の脳内に流れ込んできたのは、氷点下の吹雪のような汚れだった。
『どうしてあの女が筆頭なの?』
『血筋が良いだけで、技術は私の方が上なのに』
『民衆も、司祭も、みんな盲目だわ』
『ああ、壊したい。あの女のプライドを、地位を、その綺麗な顔を…』
エルフレイデ様の汚れが『爆発的な熱』だとしたら、フィオナのそれは『骨まで凍てつかせる呪い』だ。
ドロドロとした嫉妬と、自分を押し殺し続けてきた歪んだ自尊心。それが、魔法のパスを通じて俺の神経を侵食していく。
「っ、おぉ、冷えるな…これ、真冬の徹夜作業並みの寒気だ」
「ふふ、苦しいでしょう?寒いでしょう?これが私の本性ですわ。さあ、吐き出させてください。貴方の中に、私の黒いところを全部!」
フィオナは俺の首筋に顔を埋め、言葉にならない呻きを漏らしながら、その汚れを俺の中に注ぎ込み続けた。
彼女の指先が、俺の腕を強く、強く掻きむしる。
それは、誰にも見せられなかったドブのような感情を、唯一受け止めてくれる場所を見つけた、幼子の執着に似ていた。
「うん、よしよし。全部出して。フィオナさん、あなたはよくやってるよ。さっきのヒール、仕事、完璧じゃないか」
「…っ…ぅ、あぁ…っ!!」
俺が彼女の背中を、落ち着かせるように優しく撫でると、フィオナの体が激しく痙攣した。
心の底に溜まって、こびりついていた汚れが、俺というクリーナーを使って排出されていく。
その快感は、おそらく彼女がこれまでの人生で味わったどんな称賛よりも、甘美で、破滅的だったはずだ。
数分後。
俺の胸元で、フィオナは人形のようにぐったりとしていた。
あれほど冷たかった彼女の吐息は、今は熱く、湿り気を帯びている。
「スッキリしましたか?フィオナさん」
「…。最低よ。最低ですわ、貴方…こんな、こんな風に、私を剥き出しにして…」
彼女は顔を上げると、潤んだ瞳で俺を睨みつけた。
だが、その視線には、エルフレイデ様とはまた違う種類の絶対的な依存が刻まれている。
「…もう、戻れませんわ。聖女様の後に、こうして貴方に洗っていただくのが…私の、新しい日課になりそうです」
「はぁ。また残業が増えたな」
フィオナは、名残惜しそうに俺の唇を一撫でしてから、今度こそ立ち上がった。
扉の向こうへ消える直前、彼女は振り返り、ゾッとするほど美しい、小悪魔のような笑みを浮かべた。
「次にお会いする時は、もっと『冷たい』のを持ってきて差し上げます。聖女様に、内緒で、ね?」
結界が閉まる音。
俺は、体内に残る彼女の冷たい汚れを咀嚼しながら、天井を仰いだ。
…ドSお姉さんの次は、粘着質の後輩か。
俺の監獄生活、ホワイト企業どころか、地獄の多重債務者みたいになってきたぞ。
だが、俺の口元には、かつてのブラック企業時代には決してなかった、奇妙な充実感の笑みが浮かんでいた。




