黄金の癒やしと、禁じられた一杯
「ヒールは要りませんか?美味しいヒールは要りませんか?キンキンに冷えた…」
扉の向こうから、またしてもあの鈴を転がすような、けれどどこか湿度を帯びた声が聞こえてくる。
意識が朦朧としていた俺の耳に、その言葉は不思議な変換をされて届いた。
ヒール…冷えた…
ひーる…ひえた…
びーる…キンキンに冷えた!…ビール!
ブラック企業時代、地獄のような残業を終えた後に、コンビニの駐車場で煽ったあの黄金の液体。
喉を焼く炭酸と、すべてを忘れさせてくれるあの苦味。
今の俺の乾ききった体に、その響きは劇薬だった。
「はい!一つください!あっ、ヤバ」
勢いよく返事をしてから、俺は自分の失態に気づいた。
ここは異世界の監獄だ。仕事終わりの一杯なんてあるはずがない。
「ふふっ。元気な返事。期待していた甲斐がありましたわ」
カチリ、と結界が解け、フィオナがスッと部屋に入ってきた。
彼女の手には、前にエルフレイデ様が持ち込んだ物と同じ薬瓶…ではなく、見るからに冷気を纏った、結露の浮かぶクリスタルの小瓶が握られている。
「あ、いや。今のはその、寝ぼけてまして」
「いいえ。貴方が今、何を求めているか知っています…この『冷えたポーション』よ。さあ、どうぞ。エルフレイデ様に搾り取られたその身体に…最高のご褒美を」
フィオナは俺の枕元に腰掛けると、小瓶の栓を抜いた。
その瞬間、部屋中に爽やかな、鼻に抜けるような芳醇な香りが広がる。
ごくり。くぅ~旨い!
彼女はその指先に魔力を込め、俺の喉元に触れた。
「っ、冷たっ…!?」
「動かないで。胃の腑から、直接、冷やして差し上げますわ」
【ハイヒール】
彼女の指から流れ込んできたのは、エルフレイデ様のヒールのような温かい波動ではなかった。
内臓の熱を奪い去り、細胞一つ一つに水分が染み渡っていくような、圧倒的な喉ごし。
搾り取られてカラカラだった俺の身体が、その冷えたヒールをスポンジのように吸収していく。
「はぁっ…あ、あぁ…これ…最高だ」
「ふふ。エルフレイデ様のヒールは、熱すぎて胸焼けがするでしょう?…私のヒールは、貴方の渇きを癒やすためだけの、特別な調合ですの」
フィオナは、恍惚とした表情で俺の喉仏をなぞる。
そして、彼女の視線が、俺の首筋。
エルフレイデ様が上書きしたはずの、生々しい噛み跡、に止まった。
「あらあら。聖女様、ずいぶんと必死になられたのですね。せっかく私が綺麗に整えて差し上げたのに、こんなに無慈悲に荒らして…」
彼女の瞳が、スッと細くなる。
嫉妬。そして、対抗心。
「でも、無駄ですわ。どれだけ外側を汚しても、貴方の中を潤しているのは、私のヒールなのですから」
フィオナは、俺の唇に指を当て、小瓶に残った最後の一滴を垂らした。
冷たくて、少しだけ苦味のある、不思議な味。
「カイル様。聖女様は修行しなさいなんて仰っていたようですが…修行が必要なのは、どちらかしらね?」
彼女は俺の耳元で囁き、昨日のように痕を残す代わりに、俺の全身を冷たい光で包み込んだ。
それは、エルフレイデ様の所有という熱を、一時的に鎮静化させるような、静かなる宣戦布告。
「今日の公務が終わる頃には、聖女様も驚かれるでしょうね。貴方の身体が、またこんなに『瑞々しく』戻っていることに」
フィオナは立ち上がり、扉の方へと向かう。
その背中には、昨日よりもずっと深い、粘着質な執着が張り付いていた。
「あ~。これじゃ、夜の公務の時に、また『どうして回復してるのよ!』って、聖女様がキレる展開しか見えない…」
俺は、身体の芯に残る心地よい冷たさを感じながら、終わらない三角関係のループに、深い、深い溜息をついた。




