■番外編「最初に触れた本音」
番外編です。
本編より少し前、
“始まり”の話になります。
それは、まだ婚約が正式に決まる少し前のことだった。
王太子としての時間は、いつも決まっている。
誰と会い、何を話し、どのように振る舞うか。
すべてが“正しく”整えられている。
「殿下、この案で問題ございません」
「ええ、素晴らしいご判断です」
並ぶ言葉は、どれも同じだ。
肯定。
賛辞。
そして、否定の不在。
(……本当に、そうか?)
書類に目を落とす。
並んだ数字。
整えられた文章。
違和感はある。
だが、それを口にする者はいない。
(誰も、言わない)
言わないのか。
言えないのか。
どちらでも、同じことだった。
「……以上で、本日の報告を終えます」
頭を下げ、側近たちは退出する。
部屋に残るのは、静寂だけ。
レオンハルトは、椅子にもたれた。
(分からないな)
自分の判断が正しいのか。
それとも。
(間違っているのか)
誰も、教えてくれない。
──いや。
(教えては、くれない)
それが、この立場だ。
分かっている。
分かっている、が。
「……」
小さく息を吐く。
視線を上げた、その先。
扉の前に、一人の少女が立っていた。
「失礼いたします」
淡々とした声。
揺らぎのない立ち姿。
「公爵令嬢、アルセリア・フォン・ルーヴェンと申します」
形式通りの挨拶。
だが、その視線には。
(迷いがない)
「入ってもよろしいでしょうか」
確認の言葉。
だが、拒まれるとは思っていない声音。
「……ああ」
思わず、そう答えていた。
アルセリアは静かに室内へ入り、机の上の書類に視線を落とす。
「先ほどの案について、一点よろしいでしょうか」
唐突だった。
「このままでは、損失が出ます」
空気が、止まる。
「……何?」
思わず聞き返す。
「三項目目の配分が不適切です」
淡々と。
感情を乗せることなく。
「このまま実行すれば、資源の消費が想定より二割増えます」
指摘は、具体的で。
明確だった。
だが。
(誰も、それを言わなかった)
レオンハルトは書類に視線を落とす。
そして。
(……確かに)
気づく。
見えていなかった部分が、浮かび上がる。
「……なぜ、それを」
言いかけて、止まる。
“なぜ気づいた”ではない。
“なぜ言った”だ。
その問いに。
「必要だからです」
アルセリアは、迷いなく答えた。
「殿下が誤った判断をなさるのは、損失ですので」
そこに。
遠慮はなかった。
恐れも。
媚びも。
ただ。
(正しさ、だけがある)
レオンハルトは、しばらく言葉を失った。
そして。
ふ、と小さく笑った。
「……そうか」
初めてだった。
誰かに、こうして。
(本当のことを言われたのは)
胸の奥に、何かが落ちる。
それは、不快ではなかった。
むしろ。
(……心地いい)
奇妙な感覚だった。
「他にもございますが」
アルセリアは続ける。
「今の状態では、判断の精度が低いかと」
「……手厳しいな」
「事実ですので」
即答。
思わず、笑みが深くなる。
そして、その時。
レオンハルトは気づいた。
(この人は)
自分を。
(王太子としてではなく)
(“一人の人間”として見ている)
その事実に。
胸の奥が、わずかに熱を帯びた。
それは。
(手放したくない)
そう思わせる種類の感情だった。
──数日後。
再び、彼女と顔を合わせる。
庭園の片隅。
人気のない場所。
書類を手にしたまま、思考に沈んでいた時だった。
「また、同じ箇所で止まっていらっしゃるのですね」
声が、落ちる。
顔を上げる。
そこに、アルセリアがいた。
「……見ていたのか」
「視界に入っておりましたので」
淡々とした返答。
「原因は三つです」
間髪容れずに続く。
「一つ目は──」
説明は簡潔で、無駄がない。
逃げ道も、曖昧さもない。
ただ、正確に。
問題を、切り分けていく。
そして。
「……以上です」
言い切る。
沈黙。
レオンハルトは、しばらく動かなかった。
やがて。
「……助かった」
そう、呟く。
本心だった。
飾りではなく。
形式でもなく。
それに対して。
「そうですか」
アルセリアは、わずかに頷くだけだった。
その時。
ふと。
「……非効率ですわね」
小さく、零れる。
「この配置では、同じ問題を繰り返します」
ほんの少しだけ。
口調が、崩れる。
完璧な令嬢ではない。
ただの。
(……人だ)
その瞬間。
レオンハルトの中で、何かが変わった。
明確な音もなく。
劇的なきっかけもなく。
ただ、静かに。
(ああ)
理解する。
(俺は、この人が)
好きなのだと。
それは。
あまりにも自然で。
あまりにも、確かな感情だった。
その日の帰り際だった。
庭園を抜ける途中。
「……アルセリア」
呼び止める。
彼女は、わずかに足を止めて振り返った。
「何かしら」
相変わらず、揺るがない声音。
ほんの少しだけ。
“素”に近い。
「もし」
言葉を選ぶ。
こんなふうに、迷うのは初めてだった。
「もし、俺が」
一度、言葉が途切れる。
だが。
それでも、続けた。
「間違えた時は」
視線が、まっすぐ向く。
「……教えてくれるか」
静寂。
ほんの、数秒。
それはやけに長く感じられた。
そして。
「当然ですわ」
即答だった。
迷いもなく。
当然のように。
「殿下が誤るのは非効率ですもの」
いつもの調子。
その言葉は。
どこまでも、真っ直ぐだった。
レオンハルトは、小さく息を吐く。
そして。
「……なら」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「ずっと、見ていてくれ」
それは。
願いに近い言葉だった。
風が、止まる。
アルセリアは、一瞬だけ目を瞬かせた。
「構いませんわ」
返答は、変わらない。
「それが最適であるなら」
それだけを残して、彼女は歩き出す。
その背を見送りながら。
レオンハルトは、静かに目を細めた。
(……約束だ)
声には出さない。
だが、その言葉は。
確かに、胸の奥に残った。
そして。
その“約束”が。
後に。
彼自身を、縛るものになることを。
まだ、誰も知らない。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この時の言葉が、
今のすべてに繋がっています。




