■番外編⑦「名前の距離」
関係が一歩進むお話です。
変化というものは。
自覚した時には、すでに遅いらしい。
***
「アルセリア様、こちらを」
差し出されたのは、軽い資料。
若い文官の男だった。
距離は、適切。
接触はない。
(……正常)
アルセリアは、そう判断する。
「ありがとうございます」
受け取る。
その時。
ほんのわずかに。
男が、微笑んだ。
それだけのこと。
ただ、それだけ。
だが。
「……何をしている」
低い声が、落ちる。
空気が、一瞬で変わる。
アルセリアは振り返る。
レオンハルトが、立っていた。
表情は、いつも通り。
整っている。
だが。
(……異常)
空気が、冷えている。
視線が、鋭い。
男の方へ。
迷いなく。
「……殿下」
呼ぶ。
男は、一瞬で姿勢を正した。
「し、失礼いたします!」
それだけ言って、即座に下がる。
明らかに、逃げた。
沈黙。
残るのは、二人だけ。
(……原因)
思考が動く。
だが。
その前に。
腕を引かれた。
「……っ」
引き寄せられる。
距離が、詰まる。
近い。
あまりにも。
「……殿下?」
見上げる。
レオンハルトは、何も言わない。
ただ。
見ている。
逃がさない視線で。
「……さっきの男は、何だ」
低く、問う。
(……対象)
「文官です」
正確に答える。
「そういう意味じゃない」
即座に否定。
さらに、距離が詰まる。
呼吸が、触れる位置。
「……どういう意味でしょう」
アルセリアは問う。
逃げない。
その言葉に。
レオンハルトは、深く息を吐いた。
わずかに、視線が揺れる。
そして。
「……分からないのか」
低く、確認する。
アルセリアは、迷わない。
「分かりません」
正直に答える。
その瞬間。
レオンハルトの手に、力が入る。
引き寄せる。
さらに近い。
「……ああいう顔で」
言葉が、落ちる。
「他の男と話すな」
一瞬。
思考が止まる。
(……ああいう顔)
理解が、遅れて追いつく。
(……笑顔)
それが、原因。
アルセリアは、静かに息を吸う。
「……殿下は」
一歩も引かない。
「それを、不快と感じる」
確認する。
レオンハルトは、目を逸らさない。
「……不快じゃない」
一度、否定する。
だが。
次の瞬間。
「……気に入らない」
言い直す。
低く。
はっきりと。
その言葉に。
アルセリアの胸が、強く鳴る。
(……これが)
もう、分かる。
逃げない。
逸らさない。
「……では」
アルセリアは、ゆっくりと口を開く。
「殿下が気に入らないことは、避けます」
その瞬間。
レオンハルトの動きが、止まる。
「違う」
即座に否定。
間を置かず。
アルセリアの顎に、指が触れる。
軽く、上げる。
視線が、固定される。
「そういう話じゃない」
距離が、さらに近い。
触れそうで。
触れない。
その位置。
「……お前がどうするかじゃなくて」
一瞬。
声が、わずかに揺れる。
初めて。
抑えていたものが、滲む。
「……俺が、どうしたいかだ」
完全な、本音。
アルセリアは、それを受け止める。
そして。
ゆっくりと。
自分から、一歩近づく。
距離が、完全に消える。
逃げない。
逸らさない。
「……では」
静かに言う。
「どうしたいのですか」
一拍。
沈黙。
逃げ道は、ない。
レオンハルトは、息を吐く。
そして。
目を閉じる。
数秒。
何も言わない。
だが。
次の瞬間。
目を開く。
そこにあったのは。
抑えていたものを、手放した表情だった。
「……お前を」
低く。
はっきりと。
「他の奴に、渡す気はない」
言い切る。
そのまま。
強く引き寄せる。
完全に、腕の中。
逃げ場はない。
「……アルセリア」
名前を呼ぶ。
近い。
意味が、違う。
一瞬。
間が落ちる。
呼び直すように。
「……セリア」
時間が、止まる。
呼び方が変わる。
たった、それだけで。
すべてが、変わる。
(……今のは)
思考が、追いつかない。
だが、分かる。
これは。
決定的な変化。
レオンハルトも、一瞬だけ止まる。
だが。
もう戻らない。
「……嫌か」
低く、問う。
逃げ道はない。
アルセリアは、迷わない。
「……いいえ」
小さく、答える。
そして。
ほんのわずかに。
距離を詰める。
自分から。
「……その呼び方で、構いません」
言い切る。
その瞬間。
レオンハルトの手に、わずかに力が入る。
そして。
ほんの少しだけ、笑った。
抑えきれないものを含んで。
「……そうか」
低く、呟く。
そのまま。
離さない。
もう。
戻るつもりはなかった。
たった一つの呼び方で、距離は大きく変わるものですね。
ここが一つの区切りになっています。




