■番外編⑥「夜だけに近い距離」
少しだけ静かな時間のお話です。
夜は。
距離を、誤魔化す。
そして。
誤魔化したまま、許してしまう。
***
執務室。
灯りは、落とされている。
最低限の明かりだけ。
静かで。
逃げ場のない空間。
アルセリアは、机の横に立っていた。
レオンハルトの隣。
――最初から。
(……近距離、固定)
すでに、逃げる理由はない。
そのまま。
沈黙が続く。
紙の音。
ペンの音。
そして。
わずかに近い、呼吸。
「……アルセリア」
低い声。
近い。
「はい」
すぐに返す。
視線を向ける。
その瞬間。
手が伸びる。
頬に、触れた。
「……っ」
反射では、動かない。
ただ。
意識が、そこに集中する。
指先。
温度。
ゆっくりと。
逃がさないように。
なぞる。
「……やはり」
小さく、呟かれる。
「逃げないな」
確認するように。
試すように。
アルセリアは、迷わない。
「……はい」
答える。
視線を逸らさずに。
そのまま。
レオンハルトの目を、受け止める。
一瞬。
沈黙。
次の瞬間。
距離が、さらに詰まる。
顔が、近づく。
呼吸が、触れる。
ほんの少し動けば――
触れる距離。
「……これでも、か?」
低く、落ちる声。
試している。
どこまで許すのか。
どこで逃げるのか。
アルセリアは、理解している。
(……試験)
だが。
答えは、変わらない。
「……問題ありません」
静かに言う。
その瞬間。
レオンハルトの指が、わずかに止まる。
ほんの一瞬。
だが、確実に。
そのまま。
さらに、距離が詰まる。
額が、触れる。
近い。
だが。
それ以上は、来ない。
来ないまま。
止まる。
「……本当に」
低く。
少しだけ、息が混じる。
「無防備だな」
責めるようで。
どこか、愉しむような声音。
アルセリアは、わずかに考える。
そして。
「……殿下が」
一瞬、言葉を選ぶ。
「加減されていると認識しています」
正確に答える。
一拍。
沈黙。
そして。
レオンハルトが、小さく笑った。
喉の奥で。
低く。
「……そうか」
その声は。
先ほどよりも、わずかに深い。
そのまま。
指先が、頬から顎へ。
軽く。
持ち上げる。
視線が、固定される。
逃げられない。
逃がさない。
「では」
さらに、わずかに近づく。
触れる、直前。
「どこまでなら」
低く、囁く。
「問題ない?」
問い。
だが。
逃げ道はない。
アルセリアは、呼吸を整える。
少しだけ。
速い。
それを、自覚する。
だが。
視線は逸らさない。
「……殿下が」
「止まる範囲であれば」
答える。
静かに。
その瞬間。
レオンハルトの目が、わずかに細くなる。
満足したように。
そして。
――ほんのわずか。
触れるか、触れないかの距離で。
止まる。
それ以上は、来ない。
来ないまま。
数秒。
時間が、止まる。
やがて。
レオンハルトが、息を吐いた。
ゆっくりと。
距離が、ほんの少しだけ戻る。
だが。
完全には、離れない。
「……今日はここまでだ」
低く、言う。
それは。
終わりの宣言であり。
同時に。
次を含んでいた。
アルセリアは、小さく頷く。
「……はい」
その声は、いつも通り。
だが。
ほんの少しだけ。
呼吸が、乱れていた。
***
その夜。
何も起きなかった。
だが。
何も変わらなかったわけでもなかった。
距離は。
確実に。
次へ進んでいた。
昼とは違う距離感が出てきました。
特別なわけではないのに、少しだけ特別な時間です。




