EP 9
算盤の上の命
翌朝。
小鳥の囀りが聞こえる空き小屋の中で、アバロンの幻術使いメフィストは、ゆっくりと重い瞼を開いた。
「……ん、ぁ……」
(……俺は、生きているのか?)
全身を内側から焼くような高熱も、皮膚を食い破るような発疹の激痛も、嘘のように消え去っていた。
あるのは、数日間寝込んでいたことによる心地よい気怠さだけ。
視線を横に向けると、彼自身の腕に透明な管が繋がり、見慣れない『軟質水晶の袋(点滴バッグ)』から、透明な液体がポタポタと落ち続けているのが見えた。
「……気がついたか、メフィスト」
「ガロ、シャドウ……」
寝ずの番をしていたのだろう。目の下に濃い隈を作ったルナミスの暗殺者とレオンハートの獣人が、安堵の溜息をついてメフィストの顔を覗き込んだ。
「俺は、一体……」
「あの男が……ポポロ村の指導者ナカムラ・ユウタが、貴様を治したのだ」
シャドウが、点滴バッグを見上げながら畏怖の混じった声で告げる。
「我々が『三大国のスパイ』であると、完全に看破した上で……惜しげもなく、その『神の秘薬』を使ってな」
「なっ……!?」
メフィストが跳ね起きようとしたが、ガロがそれを優しく制した。
「動くな。まだ薬を血に取り込んでいる最中だ」
メフィストは、信じられないというように自分の腕に繋がれた管を見つめた。
敵国の隠密。本来であれば、捕縛されて拷問を受け、国家機密を吐かされた後に処刑されるのが常識だ。
それを、魔法すら及ばない死の病から救い出すなど、大国の常識では絶対にあり得ない。
ギィィ……。
小屋の扉が開き、白い不織布マスクをつけた優太が姿を現した。
手には、村長宅から持ってきたらしい湯気の立つスープ皿が乗ったお盆を持っている。
「……目が覚めたか」
優太はメフィストのそばに歩み寄ると、点滴の落ちる速度を確認し、ゴム手袋をした手でメフィストの額に直接触れた。
「……熱は完全に引いたな。発疹も消退傾向だ。よし、抜針する」
優太は手際よくテープを剥がし、メフィストの血管から注射針を引き抜いた。
アルコール綿で止血しながら、優太は短く息を吐く。
「……なぜだ」
沈黙を破ったのは、ルナミスの暗殺者、シャドウだった。
彼は、優太の足元に両膝をつき、深く頭を下げたまま、震える声で問うた。
「なぜ、我々を助けた。我々は三大国から送り込まれた間諜……隙あらばこの村の急所を突き、貴様を暗殺していたかもしれない敵だぞ」
シャドウの問いに、ガロも、ベッドの上のメフィストも、息を呑んで優太の答えを待った。
自分たちを圧倒的な力で服従させるための恩着せがましい言葉か、それとも、三大国に対する何らかの要求か。
だが。
優太は、使用済みの点滴セットをゴミ袋へ無造作に放り込みながら、鼻で笑った。
「……買い被るな。お前らがスパイだろうが、王族だろうが、今の俺にはどうでもいい」
優太は、冷徹な目で三人を見下ろした。
「俺の目の前で苦しんでいる奴は、ただの『患者』だ。そして、ここは俺が管理する兵站(村)だ。……俺の管轄内で、未知の感染症で死体を作られてみろ。死体処理の手間、感染拡大のリスク、村人たちの士気低下。どれをとっても非効率極まりない」
優太は、メフィストの脇にスープ皿を置いた。
「だから、俺は俺の算盤に従って、最も確実な方法でエラー(病魔)を修正した。それだけのことだ。……恩に感じる必要はない」
――その言葉は、スパイたちの魂を決定的に打ち砕いた。
(……なんという、スケールの違いだ)
シャドウは、額を床に擦り付けたまま、全身の震えを止めることができなかった。
大国の権力闘争。国境を巡る血みどろの争い。スパイとしての誇り。
彼らが命を懸けてきた『国家という枠組み』すら、この男にとっては「どうでもいい些末なこと」なのだ。
敵だの味方だのという低次元な次元に、この男は存在していない。
『命を落とせば、村が汚れるから治した』。
それは一見冷酷な合理主義に聞こえるが、裏を返せば『自分のテリトリーにいる命は、いかなる理由があろうとも絶対に護り抜く』という、神にも等しい絶対的な庇護の宣言に他ならない。
(……負けた。武力でも、経済力でもない。……我々は、この男の『器(魂)』の前に、完全に敗北したのだ)
アバロンのメフィストが、ポロポロと涙を流しながら、ベッドの上で深く頭を下げた。
レオンハートのガロも、静かに目を閉じ、優太に向かって獣人族の最敬礼(右拳を左胸に当てる)を行った。
「……ユウタ殿」
シャドウが、顔を上げ、かつてないほど澄み切った瞳で優太を見上げた。
「我々は、明日この村を発ちます。……そして本国には、『ポポロ村は恐るべき軍事拠点であり、不用意に手を出せば三大国は一夜にして滅びる。未来永劫、不可侵を貫くべきだ』と、我々の命に代えても進言いたします」
シャドウの言葉は、三大国最強のスパイたちが、実質的に祖国を裏切り、ポポロ村の(というより優太の)狂信的な信奉者へと寝返った瞬間だった。
「……勝手にしろ」
優太は、彼らの大げさな決意表明など全く気にした様子もなく、ただ不織布マスクを外して小さく欠伸をした。
「帰るなら、ポポロ亭のマスターに弁当でも作ってもらえ。腹が減っては、戦(逃亡)もできんだろ」
優太が小屋を後にする。
その後ろ姿を、三人のスパイたちは、まるで神の背中を見送るかのような、敬虔な眼差しでいつまでも見つめ続けていた。
恐怖と、胃袋と、そして圧倒的な『命の算盤』。
かくして、三大国のエリートスパイたちによる命懸けの極秘潜入ミッションは、誰一人血を流すことなく、ポポロ村の完全勝利という形で幕を閉じたのだった。




