EP 8
TCCCと現代医学の証明
「下がってろ。飛沫感染のリスクがある」
優太の指示により、小屋の空気は一変した。
得体の知れない病魔への恐怖と、優太が放つ『医療現場の絶対的な支配力』。
シャドウとガロは渡された不織布マスクを握りしめ、顔を覆いながら壁際まで後退した。
(ば、馬鹿な。この薄い布一枚で、あの見えない病魔を防げるというのか……!?)
(いや、ただの布ではない。極限まで目を凝らせば、無数の微細な繊維が複雑に絡み合い、極小のフィルターを形成しているのが分かる! なんという高度な紡績技術だ……!)
ただの100円均一で売っている使い捨てマスクである。
だが、スパイたちのエリートすぎる分析眼は、それを『国宝級の防護アーマー』へと勝手に昇華させていた。
優太は彼らの怯えなど気にも留めず、空中の電子ボードを操作する。
現在の善行ポイントは、先ほどの地下室工事で消費したが、その後の日々のインフラ整備で『15p』まで回復していた。
『検索:広域スペクトル抗生物質(セフェム系静注用)、解熱鎮痛剤、および生理食塩水・点滴セット』
『消費ポイント:15p。確定しますか?』
(確定だ。……全額ベット(投資)してやる)
『ピコンッ』
ポイント残高がゼロになると同時に、優太の手元に透明なプラスチックのパッケージが数個顕現した。
ビリィッ!
地球の無菌パックが破られる音が、静かな小屋に響く。
「な、なんだアレは……?」
ガロが、マスク越しに驚愕の声を漏らした。
優太が取り出したのは、無色透明の液体が詰まった『点滴バッグ』と、細く長い透明の『シリコンチューブ』。そして、銀色に光る『注射針』だった。
(あの水袋……! 完璧に透明でありながら、ガラスのように割れることなく柔らかい! なんという純度の高い『軟質水晶』だ!)
シャドウの暗殺者としての知識が、地球のプラスチックを未知の超物質と誤認する。
優太は慣れた手付きでメフィストの腕をまくり、ゴムチューブ(駆血帯)を巻いて血管を浮き上がらせた。
「少しチクッとするぞ」
アルコール綿で消毒し、迷いなく静脈へと針を穿刺する。
逆血を確認し、固定テープで留め、クレンメ(留め具)を緩めた。
ポタッ……ポタッ……と、点滴バッグの小窓から、抗生物質を溶かした薬液が規則正しいリズムで落ち始める。
「なっ……! き、貴様! メフィストの血脈に直接、針を打ち込んだのか!?」
シャドウが殺気を放ち、腰の短剣に手を伸ばしかける。
「静かにしろ。薬効成分を消化器官を通さず、直接血中濃度に乗せるための『静脈内点滴(IV)』だ。一番手っ取り早くて、確実なんだよ」
優太は冷たく言い放ち、手近な木の枝に点滴バッグを吊るした。
(直接、血に薬を……!?)
スパイたちは絶句した。
アナステシア世界における薬とは「口から飲む」か「傷口に塗る」かの二択である。血管に直接、管を繋いで薬を流し込むなどという発想は、狂気の沙汰に近い。
だが。
「……あ……、ぁ……」
点滴が始まってから数十分後。
メフィストの全身を激しく震わせていた痙攣が、嘘のようにスッと収まった。
荒れ狂っていた呼吸が静かな寝息へと変わり、顔面や首筋を覆っていた忌まわしい赤い発疹が、目に見えて赤みを引き始めている。
「う、嘘だろ……!?」
ガロが、信じられないものを見るように目を見張る。
「ヒール(魔法)でも治せなかった死の病が、たった数十分で……」
キャルルも、両手で口を覆って震えていた。
「広域スペクトルの抗生物質がバッチリ効いたな。細菌性の重度感染症で間違いない。解熱剤も入れてある、明日には熱も下がるだろう」
優太はゴム手袋を外し、短く息を吐いた。
魔力など一切使っていない。ただ『原因を特定』し、『適切な化学物質(薬)』を物理的に投与しただけ。
それが、魔法という奇跡に胡座をかいていた異世界において、どれほど異常な光景か、優太自身はあまり理解していなかった。
スパイ二人は、震える足で互いに顔を見合わせた。
(……この男、破壊だけではない。命の理すらも完全に支配しているというのか)
(国家の軍隊を消し飛ばす『破壊神』でありながら、魔法すら及ばない死の病を水一滴で治す『救済の神』……。我々は、神の領域に足を踏み入れてしまったんだ!)
恐るべき兵器。莫大な経済力。そして、絶対の生命操作。
ポポロ村の指導者・ナカムラユウタの評価は、スパイたちの頭脳(深読み)の中で、ついに『国家レベルの脅威』から『概念的な神』へと到達してしまったのだ。
「……ユウタさん。本当に、凄いです」
キャルルが、尊敬と感謝の入り混じった眼差しを向ける。
「お見事やわ、ドクター。……で、そこの『行商人さん』たちは、今後どうするんや?」
いつの間にか小屋の入り口に立っていたニャングルが、算盤を撫でながら、シャドウとガロに向かってニヤリと肉食獣の笑みを向けた。
その言葉の裏にある「お前らの素性なんて最初から全部割れとるんやで」という冷酷なプレッシャーに、最強のスパイ二人は心臓を鷲掴みにされたように硬直した。
「……っ!」
シャドウが、思わず自決用の毒牙を噛み砕こうとした、その時。
「どうするも何もない。ここは俺の兵站(病院)だ」
優太が、点滴の落ちる速度を確認しながら、振り返りもせずに淡々と告げた。
「敵だろうが、スパイだろうが、俺の目の前で患者が死ぬことは絶対に許さん。……お前らも、相棒が助かってホッとしてるんなら、大人しくそこで寝てろ」
「え……?」
優太の言葉に、シャドウとガロは完全に虚を突かれた。
毒を噛み砕こうとした牙から、力が抜ける。
静かなる医官は、すべてを知っていた。
知った上で、彼ら「大国のスパイ」を、ただの「救うべき命」として扱い、高価な(善行ポイントを全消費するほどの)薬を惜しげもなく使ったのだ。
国家の謀略も、殺し合いの螺旋も。
この男の『生命に対する絶対的なロジック』の前では、あまりにもちっぽけで、無価値なものに思えた。
エリートスパイたちの心が、完全に、そして決定的にへし折られた(魅了された)瞬間だった。




