EP 15
絶望の死蟲と【リーザの覚醒】
ギィィィィィィィィィィッッ!!
空を黒く塗り潰した『死蟲機』の群れから、金属の軋むような不快な羽音が降り注ぐ。
「ヒィィィッ!? む、蟲が、蟲が降ってくるぅぅッ!」
「逃げろ! 家の中に隠れ――ギャアアアッ!」
木造の家の屋根を、刃物のような鋼鉄の脚が容易く貫き、破壊する。
空を飛ぶ『死蟷螂型』。その両腕に備わった巨大な大鎌が、逃げ惑う村人たちへ無差別に振り下ろされていく。
「燃え尽きろォォォッ!! 『大火炎』ッ!!」
イグニスが上空へ向けて紅蓮の炎を吐き出す。
数匹の死蟲が黒焦げになって落ちるが、焼け石に水だ。倒した端から、十倍、二十倍の蟲が雲霞のごとく湧き出してくる。
(……戦力差が絶望的すぎる)
優太は薙刀(木の枝)を振るい、地上に降りてきた死蟲の関節を的確に破壊しながら、血の滲む思いで戦況を分析していた。
先ほどの役人制圧でポイントを消費し、現在の善行ポイントはわずか『4p』。戦局を覆すような重火器(面制圧兵器)を召喚することは不可能だ。
「ユウタさん、右です!」
キャルルがトンファーに闘気を纏わせ、優太の死角から迫った死蟲を粉砕する。
だが、その彼女の息もすでに上がっていた。先の戦闘での過剰な回復魔法による自傷ダメージが、確実に彼女の体力を削り取っている。
「キャルル、無理をするな! 後方に下がって重傷者の止血に回れ!」
「だめです! 私が前線を支えないと、みんなが……っ!」
防衛線が、物理的な限界を迎えようとしていた。
その時だった。
「……あ」
広場の隅。
役人に蹴り飛ばされ、泥だらけになってしゃがみ込んでいたリーザの真上に、ひときわ巨大な『死蟷螂』が舞い降りた。
鋭い鋼鉄の鎌が、無防備なポンコツ人魚の細い首を刈り取ろうと、高く、高く振り上げられる。
「リーザッ!!」
優太が叫び、走り出す。
だが、距離が遠すぎる。間に合わない。
リーザの脳が恐怖でフリーズし、彼女の手から、大事に握りしめていた『パンの耳』がぽろりと泥に落ちた。
死の風を切って、大鎌が振り下ろされる。
リーザが、ギュッと目を閉じた――その瞬間。
『――冷たくなった、小さな手』
『もう二度と、絶対に、誰にも死なせはしない』
ザグゥゥゥゥッッ!!!
「…………え?」
肉を断ち切り、骨を砕く、重く生々しい音。
リーザが恐る恐る目を開けると、そこには、自分を庇うように覆い被さる『小さな背中』があった。
「……きゃ、キャルル……ちゃん?」
キャルルの兎耳が、力なく垂れ下がっている。
彼女の華奢な背中には、死蟲の大鎌が深々と突き刺さっていた。
「あ……がっ……」
キャルルが大量の血を吐き出す。
その温かく、鉄の匂いのする鮮血が、リーザの泥だらけの頬にボタボタと降り注いだ。
「逃げ……て、リーザちゃん……。……だい、じょうぶ、だから……っ」
キャルルは、激痛に顔を歪めながらも、リーザに向かって優しく、本当に優しく微笑んだ。
そして、その場に糸が切れたように崩れ落ちた。
「あ……あぁ……っ」
リーザの瞳孔が、極限まで見開かれる。
血。血。血。
私に、美味しい朝ごはんを作ってくれた手。
私に、暖かいベッドを分けてくれた体。
家賃を払わなくても、雑草を食べていても、いつも笑って『おかわりあるよ』と言ってくれた、私の北極星。
(なんで……)
リーザの心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
全身の血が逆流するような感覚。
(私は、いつも『もらう』ばっかりだった)
(パンの耳も。五円玉も。優しさも。命すらも)
「――ッ!!」
死蟲が、キャルルの背中から鎌を引き抜き、今度はリーザへと再びその刃を振り上げる。
優太が絶望的な顔で手を伸ばしているのが見えた。
リーザは、泥だらけの両手で、自分の頬についたキャルルの血を乱暴に拭った。
(もらうばっかりのアイドルなんて、三流以下だ)
(今度は、私が『与える』番だ……ッ!)
ガタガタと震える足に、無理やり力を込める。
リーザは、傍らに転がっていた手作りのステージ――ボロボロの『みかん箱』を引っ張り寄せ、その上に力強く立ち上がった。
そして、大きく、深く、息を吸い込む。
「……聞いて、くださいッ!!」
震える声だった。
だが、その声は不思議なほどに通り、絶望と喧騒に包まれた戦場に、一筋の光のように響き渡った。
死蟲の鎌が振り下ろされる。
それを意に介することなく、リーザは深海の底から湧き上がるような、本来の『人魚姫』としての力――その声帯を完全に解放した。
「――『戦神の凱歌』ッ!!」
♪〜〜〜〜〜〜ッッ!!!
爆発的な音波。
いや、それはもはや音という物理現象を超越していた。
リーザの口から放たれた透き通るような高音が、青い光の波紋となって、ポポロ村の広場を円形に包み込むように一気に拡散していく。
「ガ、ギィィィッ!?」
リーザに鎌を振り下ろそうとしていた死蟲が、不可視の音の壁に衝突したかのように弾き飛ばされ、空中でバランスを崩して墜落した。
「……っ!? これは……!」
青い波紋(歌声)を浴びた優太は、己の身体に起きている異常な変化に目を見張った。
疲労で重くなっていた筋肉が、嘘のように軽い。心拍は落ち着き、視界の隅々までが恐ろしいほどの解像度でクリアに見える。
魔法によるバフ(身体能力の極限強化)。
それは優太だけでなく、村中の人々に劇的な変化をもたらしていた。
「オオオオオオォォォォッ!! 力が、無限に湧き上がってくるぜェェェッ!!」
イグニスの背中の翼が倍に膨れ上がり、吐き出す炎の色が、赤から『超高温の蒼』へと変化する。
蒼いブレスが天空を焼き尽くし、空を覆っていた死蟲の群れが次々と灰になって消滅していく。
「すげぇ! 鍬が羽みたいに軽いぞ!」
「やっちまえ! 俺たちの村から出てけぇぇッ!」
怯えていた老人や自警団の男たちも、リーザの歌声に鼓舞され、農具や剣を手に狂ったような雄叫びを上げて死蟲に反撃を開始した。
みかん箱の上。
泥と血にまみれた人魚は、泣きながら、それでも顔を上げて歌い続けていた。
パンの耳を食い、雑草を食い、誰かに哀れまれながら歌っていた底辺のアイドルは、今この瞬間、ポポロ村の希望を繋ぐ『絶対無敵の戦神』として戦場に君臨した。
「すごいな。……本当に、バカバカしいほど非科学的だ」
優太は、薙刀を強く握り直し、死蟲の群れへと単騎で突撃した。
リーザの歌が続く限り、この防衛線は崩れない。
あとは、キャルルを治療する時間と安全を物理的に確保するだけだ。
希望の光が見えた。
だが――絶望の底にいる『もう一人の怪物』は、まだこの惨劇の連鎖から抜け出せてはいなかった。
「……あぁ……ァ」
ポポロ亭の入り口。
倒れたキャルルと、彼女の背中から流れる血。そして、逃げ惑って泣き叫ぶ子供たちの悲鳴。
それを見た宿屋の店主・龍魔呂の瞳から、光が完全に失われた。
『――ゴミ捨て場で握った弟の手は、もう冷たかった』
ブツンッ。
男の中で、決して切ってはならない『最後の理性の糸』が、音を立てて断ち切られた。




