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EP 11

踏みにじられる日常

「さあ、早くサインしろ。日が暮れてもいいのか?」

ルナミスの特命役人が、泥に塗れた羊皮紙を靴の先端でトントンと叩きながら急かした。

村人たちの間に、啜り泣く声が広がる。

キャルルは、唇を噛み締めて立ち尽くしていた。

サインすれば、村人は特産品を奪われ、飢えと重税に苦しむ奴隷となる。

だが、サインを拒めば、軍は撤退し、隣村を食い尽くした『死蟲』の群れがこの村を襲う。

自警団の戦力では、絶対に守りきれない。

また、失われてしまう。

『――冷たくなった、小さな手』

脳裏にフラッシュバックするトラウマ。

キャルルは、両拳を血が滲むほど握りしめ、ゆっくりと、その膝を泥の地面へと折ろうとした。

「……わかり、まし――」

「あーっ! お客さんですかぁ!?」

張り詰めた空気を切り裂く、場違いなほど能天気な声。

広場の端から、手作りの『お賽銭箱』を抱えたリーザが、泥だらけの服でパタパタと駆け寄ってきた。

「立派な馬車! ピカピカの服! わぁ、絶対太客パトロンじゃないですか! 初めまして、スパチャアイドルのリーザです! 今なら最前列でライブ見放題ですよぉ!」

空気を全く読まないポンコツ人魚の乱入に、役人たちの顔が露骨に歪んだ。

「……なんだこの薄汚い半魚人は。臭いぞ」

アバロンの官僚が、汚物でも見るかのような目でリーザを睨み下ろす。

「えっ? 臭……っ!? そ、そんなことないですよ! 今日はちゃんと水浴びしましたし! それより、ライブの御縁(五円)を――」

「失せろ、ゴミが」

ドンッ!

ルナミスの役人が、苛立ち任せにリーザの腹を蹴り飛ばした。

「きゃあっ!?」という短い悲鳴と共に、リーザが泥の中に転がる。

抱えていたお賽銭箱が宙を舞い、中に入っていた数個の野菜と、優太が与えた『黄金の五円チョコ』が、無惨に地面へ散らばった。

「あ……っ! わたしの、五円……!」

泥だらけになったリーザが、這いつくばって五円チョコに手を伸ばす。

ユウタさんがくれた、初めての輝くおひねり。彼女にとって、それは明日への希望そのものだった。

だが、リーザの指先が触れる直前。

「……底辺のドブ浚いが。ゴミは泥の中に引っ込んでいろ」

グシャァッ。

ルナミスの役人の分厚い革靴が、無慈悲に五円チョコを踏み にじった。

黄金色の包み紙が破れ、中のチョコレートが泥と混ざって無惨に潰れる。

「あ……ぁ……」

リーザの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。

「貴様らァァァッ!!」

イグニスが斧に手をかけ、自警団の男たちが怒号を上げる。

役人の背後に控えていた三国混成の護衛兵たちが、一斉に剣を抜き放ち、チャキッと殺気を放った。

一触即発。

その最悪の引き金を止めたのは、他でもないキャルルだった。

「やめて!!……お願い、やめて……っ」

キャルルは、役人の足元――潰れた五円チョコと、泣きじゃくるリーザの横に、両膝をついた。

泥水が、彼女の足を汚す。

「……村長!」

「手を出さないで! ……この子に、村のみんなに、乱暴しないでください……っ」

キャルルは、額が泥に触れるほど深く、深く頭を下げた。

彼女の兎耳が、震えながら力なく垂れ下がっている。

「私が……サイン、します。だから……もう誰も、傷つけないで」

「はっはっは! 最初からそうしていれば、この薄汚い半魚人も蹴られずに済んだものを!」

役人たちが、腹を抱えて醜悪な哄笑を響かせた。

(……チッ)

群衆の端で、優太の理性が、完全に焼き切れた。

『大国の軍隊と事を構えるな』という戦術的最適解。

『自分一人が生き残るための』TCCCの絶対原則。

そんなものは、もうどうでもよかった。

あの図太い人魚が泣いている。

不器用で、自己犠牲の塊のようなウサギが、理不尽な暴力の前に泥を啜らされている。

優太が守ろうとした『兵站(日常)』が、今、目の前でゲラゲラと笑いながら踏みにじられている。

(殺す。全員、ここで物理的に排除する)

優太の瞳孔が細く収縮し、右手が電子ボードの『C4爆薬(15p)』のアイコンへ伸びた。

全身から、ハワイで本物の殺し合いを経験した者だけが放つ、血と硝煙の殺気が漏れ出す。

優太が一歩、死神のような足取りで踏み出そうとした――その瞬間。

カチャッ。

耳元で、銀色の懐中時計が閉じる、冷たい音がした。

「……お待ちを、ドクター優太」

いつの間にか、優太の真横にリバロンが立っていた。

燕尾服の執事は、前を向いたまま、微動だにしない。だが、その声は絶対零度のように冷たく、そしてどこか『愉悦』を含んでいた。

「患者の切開には、麻酔の時間を待つ必要があります。……あと『三分』です」

「……何?」

優太が視線を向けると、リバロンの背後――村長宅の物陰で、ニャングルが算盤を弾く手を止めたところだった。

ニャングルは、額に薄っすらと汗をかきながらも、獰猛な肉食獣のようにニヤリと牙を剥き出しにして、親指をグッと立てた。

『特定、完了ロックオンや』

声なき口の動きが、そう告げていた。

「害虫が己の勝利を確信し、最も隙を見せる瞬間……それが、最高の『お掃除』のタイミングです」

リバロンは、泥に額を擦り付けるキャルルと、哄笑する役人たちを見据えながら、静かに白手袋をはめ直した。

「さあ。我らがマスターを愚弄した代償……骨の髄まで、払っていただきましょうか」

三分後。

ポポロ村の広場は、大国の役人たちにとって『この世の地獄』と化す。

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