始 2
飛ぶ事自体、慣れていたような感覚だった。何故だろう。
とても怖かったのに。
驚きは自分でも驚く程無かった。感動も余り無かった。飛んでみればそれは、当たり前のような感覚だった。
飛んでみようとすれば、流石にまだ僕の体を持ち上げる程にはならなくて、バランスが崩れてしまう。
でも、そこまで慌てる事も無くまた滑空の姿勢に戻れた。
……何だろう。
良く分からないけど、そんな最初からとても安定した滑空が、僕には少し変にも思えた。
驚きや感動が無かったと言えども、こうして初めて滑空しているのはとても気持ち良かった。僕の体を優しく撫でるようにして過ぎ去って行く風は心地良くて、そんな中を滑って行くように徐々に地面に近付いて行くのにもわくわくしていた。
でも、そんな感覚の中に、初めてという感覚は少なかった。心地良さも、わくわくも、何て言うのか、もう知っているような感覚があった。
どうしてだろう。
後で、父さんに聞いてみようと思った。
がさがさと、派手な音を立てて木の上に降りると、数羽の鳥が驚いて飛び去って行った。
細い枝の上に体を降ろすと、ぼきぼきとすぐに折れた。枝を折りながら、僕は地面に落ちた。
「げっ」
ちょっとだけ、体に衝撃が走る。ごほごほと何度か咳をした。
体を震わせて鱗に引っ付いた枝や木の葉を取ってから、前を見た。
ほぼほぼ真っ暗だった。自分の体さえ、ほぼ見えない。真っ暗、真っ黒。
少し歩いてみるけど、僕が次、足を踏み出す所に地面があるのかさえ良く分からない。
とても、怖い。でも、そんな中にもわくわくは消えてない。
木々の合間を縫って通って来るほんの少しの月の光が、真っ暗なこの森の中に段々と見えてきた。この真っ暗な場所に、目が慣れ始めているみたいだ。
光の通っている場所に行って月を眺めると、飛んでいる時に見たよりもとても眩しかった。
そしてまた、父さんの姿は見えなければ、羽ばたく大きい音も聞こえない。
本当にまだ寝ているんだろう。僕は、夜をここで過ごさなきゃいけない。
怖くて、でもやっぱり、わくわくしていた。
眠気何て全く無い。それに、お腹も空いている。
僕が狩りを、特にこんな何も殆ど見えない中で出来るか何て分からないけれど、やってみようと思った。
ただ、父さんを待っているだけだったのもつまらないし、それに、ただここまで飛んで来れたからと言って、父さんが何か獲って来てくれるかどうか、ちょっと不安だった。
ご飯、とか言ったら、自分で狩れよとか言われそうだ。
鼻をひくつかせて、臭いを感じてみると、いつも父さんと昼の間に来ている時の臭いとは微妙に違う臭いがした。
夜に主に活動する動物も居るんだっけ。多分それが原因なんじゃないかな、と思いながらゆっくりと歩く。
けれど、獣の声らしきものは何も聞こえなかった。獣の臭いはしても、どこに居るのかまでは良く分からなかった。
ぐぅぅ。
どうしよう。腹の虫も鳴ってしまった。
本当にお腹が空いたら、何日も物を食べずに死にそうになるまでになったら、父さんは何か獲って来てくれるんだろうか。それでも父さんは何もしてくれないんだろうか。
分からなかった。ここに来た父さん以外のドラゴンとも喋った事はある。僕と違って父さんも母さんも居る、フリガンとも何度か喋って遊んだ。
けれど、色んなのドラゴンとも色々喋って、聞いたけれど、それでも父さんの言葉はどこか掴み所のないような感じで、どれが嘘でどれが嘘じゃないのか良く分からなかった。
とにかく、自分で何か狩れるなら、やってみよう。ここでただ考えていても仕方ない。
足を前に出して、ざむ、と音がした。違う音が重なったような、そんな違和感がした。
続けて、ざむ、ざむ、と草を掻き分けて来る音が微かに聞こえる。もう、足は出してない。僕の足音じゃない。
緊張が体に走った。音からして、僕より体は大きいのは確かだった。
僕に気が付いているのか? その上で、僕に近付いて来ている?
……昼知った事を思い出す。生きる為には、頑張らなくちゃいけない。
何もしないで強くなれる訳じゃない。
もし、僕がドラゴンだと気付いた上で近付いて来ていたなら、現時点で僕よりその何かは強いって事だ。
狩りをしよう何て思ってたけど、僕は、とんでもない勘違いをしていたかもしれない。
今まで、父さんに連れられてここまで降りて来た事は何度もあった。でも、父さんから離れた事も無かった。
そんなに怖い獣何て居ないだろう。無意識にそう思ってた。
それに、父さんが狩って来る獣にもそこまで強そうなのは居なかったし。
けれど、だからと言って、僕の前に死んだ状態で出た獣がここに住む全ての獣じゃない。
そして、僕はまだ、この爪と牙、尻尾、体全てを、狩りに使った事はない。
……狩りなんて、簡単だと思ったんだけど。
そんな事言えるようになるのは、まだまだ先みたいだ。
足音は草を掻き分ける音がしなくなると、全く聞こえなくなった。けれどもう、臭いで近付いて来ていると分かった。
取り敢えず、襲い掛かって来たら、噛みつこう。僕の体は頑丈だし、牙は骨を砕ける位には強いんだ。
臭いがして来る方に、頭を向けて、どう構えたら良いのかも分からないけど、前を見据えた。
やっぱり、殆ど何も見えない。僕が今まで見た獣なのか、違うのかも分からない。臭いが強くなって来ているけど、今まで嗅いだ臭いだったかどうか、曖昧な感じだった。
もう、近い場所に居る。でも、耳をどれだけ澄ませようとも、全く足音は聞こえない。
怖い。わくわく何て、もうしてない。
やっぱり父さんが寝ている時に来るんじゃなかった。とてつもない後悔だった。
近くで喋っても全く起きなかった位だ。ここから叫んでも、父さんは来ないだろう。
それに叫んだとしても、もう手遅れかもしれない。
さく、と音がした。
後ろから。
え? 臭いがする方向とは全く逆だった。
振り向いた時には、首を前足で抑えられた。僕よりそれは重く、動けなかった。
「滑空しかまだ出来ない子供がこんな場所にでしゃばるな」
「……ごめんなさい」
その迷惑そうな声に、つい、謝った。
全くの真っ暗じゃない、ほんの少しの月明かりはある。けれど、こんな至近距離でも、目に少しは見える筈のその姿は全く見えなかった。
それと、口調からして、僕を殺す気は無さそうだったのに、心底ほっとしていた。
首を抑えつけられたまま、その何かは続けた。
「お前がここで死んだらどうなると思う? いや、俺がお前をここで殺したらどうなると思う?」
いきなりそんな物騒な質問を投げかけられて、ちょっと考えてから言った。
「父さんが……殺しに来ると思う」
そう言うと、すぐに返された。
「そんなんじゃないな。子供には分からんだろうが、子供を亡くした親ってのは、とにかく恨みとか妬みとかそういうものに満たされる。
俺がそうなったとしても、まあ、適当にそこらの奴を食い散らかす位しか多分、暴れるとしても上限だ。そん位しか出来ない。
だが、あんなお前の父親の巨体で、炎も吐くような奴がそんな事になったら、俺だけじゃない。ここら一帯の沢山が死ぬ羽目になる。
もし、その事が分かってない馬鹿がお前を殺したら、俺みたいに喋れる奴も、喋れない奴も、纏めて皆殺しだ。迷惑もクソもねぇ。
そんな事分かってなかったろ」
「……うん」
「それにな、お前大体あの上で暮らしてたんだろ。ここでどうやって親が来るまで過ごすつもりだった?」
僕の何かが抉られていくような感覚がしていた。
でも、黙っていても、何にもならなかったし、首から前足をどけてくれもしなかった。
「狩りでもしてみようかと……」
はん、と鼻で笑われた。
「どうやってだ?
お前のそのまだ大して走れなそうな短い足で? 飛べもしない翼で? 俺の糞尿に騙されて後ろから近付いていた事に気付きもしなかった鼻で? 直前まで気付かなかったって事は、大して耳も良く無さそうだな。まだ、炎も吐けないだろ。
それに、ここにどんな奴が居るのかも詳しく知らないだろ。多分噛みつければ狩れるとか思ってたんだろうけどな、噛みつける距離まで行けたとしても、噛みつく前に噛みつかれてお前のまだそこまで硬くない鱗を引き裂ける奴も沢山居る。噛みついても、強烈な蹴りや角の一撃を食らわせられる奴も沢山居る。
んな事も考えたか? 考えてないだろ。
お前は、まだ弱いんだよ。そこらで草食ってる奴等以下だ」
何も言えなかった。反論何て出来る訳が無かった。
涙さえ出て来た。
「……ごめんなさい」
「何に対してだ?」
「えっ……えっと……」
「そんな事も分からずに謝るんじゃない」
ごめんなさい、ともう一度言おうとして、やめた。
未だに前足が首の上にあるまま、考えた。
僕が死んでたら、もしかしたらここ辺り一帯が父さんによって燃えていたのかもしれない。
僕の命は、ここの全ての生物の命と、今は同じようなものなんだ。そして、僕が一匹で降りたとしても、狩れる可能性よりも、殺される可能性の方がとても高かった。
いや、狩れる可能性なんて、思いたくないけど、全く無かったのかもしれない。
「…………ごめんなさい」
ここ辺りに住む、全ての生物に対して。僕は無謀にただ、降りて来ただけだった。
「……ならいい」
また何に対して、とは聞かれなかった。
首から前足が離れて、それは近くに座った。
直接当たった月の光で少しだけ見えたその容貌は、本当に真っ黒な、大きい猫みたいだった。
お腹が減ったのは変わらなかったし、狩り何て出来やしない。かと言ってどこかに行く事も許してくれそうにも無かった。
その大きな猫も、特に何も喋る事も無く、ただ黙っていた。どこを見ているのか分からないけれど、僕の方を見ている気はした。
じっとしているのにも飽きて、とは言え、出来る事も大して無く、木の根を齧っていると、その大きな猫が話し掛けて来た。
「名前、あるのか?」
「……教えてくれたら教えるよ」
大きくなったらこんな奴より強くなるのに、と心のどこかで思っていたんだろう。自然と出たその言葉は、せめてもの意地だった。
「ジェルヴェーシだ」
即座に答えられて、何か不愉快になった。
「……アレフ」
ずっと黙っているのも嫌だったけれど、このジェルヴェーシと喋るのもちょっと嫌だった。
気分は怒られて凹んでいたし、泣いてしまったし。けれど、喋らないでいるよりは、マシだと思った。
「……ジェルヴェーシは、何ていう種族なの?」
「セヴザとか人間達からは言われているな」
「セヴザ?」
「聞いたところによると、黒い牙とか、そんな意味らしい」
「へぇ」と、返しながら、ジェルヴェーシは人間とも付き合いがあるのか、と思っていた。
聞いてみれば、この森に一人だけ、人間が居るらしかった。
「あいつは人間にしちゃ強いし、話も通じる。良い奴だ」
「今度会ってみたいな」
「それは無いだろうな」
即答。
「何で?」
「ドラゴンなんて、子供は強大で恐ろしい親の庇護があるし、そしてすぐに俺等よりも強く大きくなる。
んな奴に近付きたいとは思わねぇよ。
それに、俺がこうしてお前を今、守っているのも俺自身の命が惜しいからであって、お前の為じゃない」
「……そう」
がっかりしながらも、すぐに強くなるという言葉にちょっと疑問を覚えた。本当に?
「強く、なるのかな」
「何を馬鹿な事言ってるんだ。体が俺よりでかくなった時点でもう、俺の爪はお前を殆ど傷つけられねぇだろうし、空も飛べるようになってるだろ? そんなのすぐの事だ」
「うん……でも、それって、強いって事なのかな」
ジェルヴェーシはその僕の独り言に近い問いに、「なるほど」と呟いて、それから少し時間を置いて言った。
「ある意味、お前の疑問は正しいな」
「ある意味?」
「ああ。でも、そうやって疑問を抱いているなら、その内気付くだろうし、俺にとっても安心だ」
何で、ジェルヴェーシまで僕が疑問を抱いている事に安心するんだろう。
でも、それは聞いても答えてくれなかった。
それから少しして、ばさり、ばさり、と遠くから翼の音が聞こえて来た。
上を見ると、木の葉の隙間から見える空に、翼を広げた父さんの姿があった。
「父さんだ」
ジェルヴェーシはすぐに立ち上がった。
「さっさと呼んで帰れ。荒らされたら堪らん」
そう言って、一足で僕の視界から消えていた。
……僕が大きくなったら、僕が強くても強くなくても、ジェルヴェーシは僕の前に姿を現さなくなるんだろうか。いや、もう、これから僕がこんな馬鹿をしなきゃ、会う事も無いんだろうか。
僕を守る必要もない。逆に狩ろうとしなくても、僕が大きくなったら、僕に狩られる恐怖さえもが出てくるのかもしれない。それは、ちょっと悲しかった。
怒られたのに。
「父さん! ここ!」
そう大声で言うと、父さんはすぐにこっちにやって来て、ばきばきと木々を折りながら盛大に着地した。
荒らされたら堪らんって言われたのに、と思ってると、「大丈夫か?」と焦った大声で聞いて来た。
「そんな大声で言わなくたって分かるよ」
「心配したぞ!」
僕の声何て聞いていなかった。
「どうして俺が寝ている内に飛び降りるんだ! 夜の森なんてお前がまだ動ける場所じゃない!」
……本当に心配を掛けちゃったんだなあ。
まくし立てられる言葉は、僕に突き刺さって行った。さっきと同じく。
ジェルヴェーシは自分の為に、そしてまた、僕の為に怒っていた。それは静かに、僕の馬鹿らしさを認めさせるように。
父さんの声は、上から耳に響く程の大声だった。
僕の馬鹿らしさを怒っているのも同じだった。でも、父さんは、父さんだった。僕の為だけに怒っていた。
いつもは降りる時にこんなに木々をへし折ったりしなかったし、こうやって声を荒げるのも初めて聞いた。
本当に父さん何だろうか、とも一瞬思った。でも、木々で遮られる事のない、その見慣れた傷だらけの体はしっかり月明かりに映っていた。
二度も怒られて、とても滅入る気持ちになったけれど、ちょっとだけ嬉しかったのもあった。
僕は、この巨大でとても強い父さんに守られている。そして、愛されている。いつも寡黙で、何を考えているのか分からないけれど、それは確かだった。
怒られるのが終わると、と言うより、父さんが落ち着くと、僕を背中に乗せてすぐに飛んだ。
お腹が鳴る。
すると、「お腹減った」と言う前に、父さんが臭いを嗅いだと思ったら長い尻尾をひょいと森の中に潜らせて、気付くと大きめの兎を絞め殺して持ってきていた。
ばさり、ばさりと父さんがゆっくりと崖の上に戻って行く間に、僕は聞いた。
「僕は……」
体が大きくなるだけじゃなくて、鼻や耳も鋭くなるの?
そう聞こうと思って、やめた。代わりに、こう聞いた。
「僕は、何もしなくても強くなるの?」
「…………生物としてはな」
数瞬の間を置いて、父さんは答えた。もう、元の口調に戻っていた。
「生物としては?」
「ドラゴン同士でも争わなきゃいけない時はある。何もしなければ、その時弱いドラゴンとして惨めに負けるだけだ」
「争わなきゃいけない時って、例えば?」
「……好きな奴を番にしたい時とか」
自然と口に出そうだった言葉を押し込んだ。
……、父さんは、負けたの?
なら、僕はどうしてここに居るの?




