始 1
「母さん……」
空を眺めて、僕はもう、そう何回呟いたんだろう。けれど、眺めていて来るのは、いつも父さんだ。
ばさり、ばさりと強い風を僕に叩きつけながらゆっくりと父さんは降りて来る。
「どうした?」
「ううん、何でも無い」
父さんは、何も言ってくれない。何で僕に母さんが居ないのか、僕は知らない。
父さんは赤色。僕も、赤色。けれどそれが、父さんの血を濃く引いているから僕はそうなったのかも、僕は知らない。
僕は母さんの色も知らない。何も、母さんについて知らない。
友達のフリガンには父さんと母さんが居るのに、僕には居ない。
「飯、獲って来たぞ」
「うん」
どさりと父さんの前足から落ちたのは、今日は猪だった。
「父さんは?」
「もう食っちった。すまんな」
口の血を舐め取りながら、父さんはそう言った。
「そう」
食べ始めると、まじまじと、父さんが僕の方を見て来る。
「何?」
「そろそろ、頃合いかな、と思ってな」
「頃合い?」
「そろそろ飯位自分で獲って来る頃だ、って事だ。鱗もある程度は硬くなって来たし、爪や牙だって鋭くなって来てるだろ?」
「……うん」
確かに。言われてみて気付いた。いつから肉を食い千切るのに苦労しなくなったか、覚えていない。
転んでも、岩に体を打ち付けても余り痛くなくなったのも、同じだった。いつの間にかそうなっていた。
肉に食い込ませていた爪の先は、骨に刺さっていた。
「そっか」
悲しかった気持ちが、じわじわと嬉しさに変わって行く感じがした。
「でも、僕まだ飛べないよ?」
何となく、聞いた。
「そうだな。でも、滑空位なら出来る」
「滑空?」
「羽ばたかないでも鳥が空を飛んでいるのを見た事は無いか?」
「いや、分かるけど……」
分かってはいる。僕は、とても嫌な予感がした。
「心配するな。死にそうになったら助けてやる」
「え」
「食ったら行くぞ」
「ちょっと? ねえ、父さん? 何で何も言わないの?」
父さんは、それ以上何も言ってくれなかった。目を瞑って体を丸めてしまった。
「ねえ、僕どうするの? まさか飛び降りろとでも? いきなり?」
いつの間にか硬くなった僕の爪で引っ掻いても、父さんの体には傷一つ付かなかった。
この猪を食べなければ、行かなくても済むんじゃないかな、とも思ったけれど、僕の胃の猛烈な訴えには負けた。
後足一本と少しだけが残り、最後の柔らかい太ももの部分を食べる。父さんは体を丸めたまま動かなかった。
寝てるのかな……。良く分からない。寝ていない、と思う。でも、確かめようにも、それは食べ終えた事を伝える事にもなりそうだ。
残った骨をばりばりと噛み砕きながら、食べる音が聞こえなくなってもきっと起きるんだろうなぁ、と思う。
結構考えてみたけれど、僕が父さんから逃れる術は見つからない。
諦めるしか、無いんだろうか。高い所から突き落とされるのか、それとも父さんに抱えられて更に高い所から落とされるのか。
「嫌だなぁ」
口から、自然と零れ落ちていた。
「なら、止めるか?」
唐突に、父さんが体を丸めたまま、言った。寝てなかったんじゃないか。
「えっ」
そんな提案に、僕は固まる。
「いや……」
その父さんの言葉は、そんな弱虫で良いのか? とも聞いていた。
嫌だなぁ。僕は、そんな提案に素直に乗れない。この背中から生えている翼は、飾りじゃない。
「何やるの」
そう聞くと、父さんは言った。
「ここから飛び降りろ」
予想はしてたけど、そう淡々と言われると、やっぱり怖くなった。
「それだけ?」
のっそりと首を持ち上げて、父さんは言った。
「それだけだ。俺が無理矢理落としたりもしない。自分で決めて、自分で飛び降りろ」
「……うん」
突き落とされるよりは気は楽かな、と思った。
骨を飲み込んでから、崖へと歩いて行く。近くまで行った事は何度もあるけれど、そこから先は父さんが、僕が近寄らないようにと隙間なく置かれた岩が邪魔で行く事は出来なかった。
登れない事は無いと思っていたけども。
「危ないからどいてろ」
「うん」
崖へ落とせば良いのに、と思いながらも、崖の方から父さんがその一つの岩を体で動かしてどけた。
岩がどかされて、その先の、これまでは父さんに連れられてしか見れなかった光景が見えた。地平線まで広がる緑、それと所々にそびえ立つ岩の柱。
僕が住んでいる所も、その岩の柱の一つ。
歩いて、崖の縁の近くまで行く。岩の下敷きになっていた地面は色が変わっていた。それと、虫が結構押し潰されていた。
ぺっちゃんこになって体液が出ているその虫の上を通り過ぎて、自然と僕の足は遅くなる。
父さんが岩の上から僕を見ている。
崖の縁まで近付いて、下を見た。
……あれ。こんなに高かったっけ。
もう、父さんに連れられて何度も見た筈の光景なのに、崖の先は自分の目でこうして見ると全くの別物に見えた。
僕は、ここから飛ばないといけないのか。
ぎゃあぎゃあと、鳥の群れが森の中から一斉に飛び出した。そんな風に僕は飛べる気がしなかった。
風も強く吹いている。ごつごつとした岩肌に叩きつけられたら、僕の大きくない翼は折れてしまいそうな気もした。
そして、ここから飛び降りたとしても滑空何て出来ずに、そのまま落ちてしまいそうな気がした。
「心配するな、危険そうだったら助けてやるから」
「……うん」
そんな僕の心境を読んでか、父さんがそう言ったけれど、僕の恐怖が薄れる事も余り無い。
ここから飛び降りろだって? それも、父さんは何もせずに。
飛び降りる事自体、とても怖い事だけれど、飛び降りさせられた方が楽だと思ったのは、多分気のせいじゃない。
一旦崖縁から足を退いた。
「飛び降りなかったら、飯抜くぞ」
「えっ。そんな無茶な」
……あーあ。
体を丸めて目を閉じた。何でいきなりこんな事になるかな。
この中に居る事に退屈もしてたし、母さんが居ない事にとても不安を覚えてたりもした。大きくなったら父さんに何が何でも母さんの事を聞き出して、探しに行こうとかも思ってた。
でも、その大きくなったら、という事は、ただ生き続けているという事じゃなかった。
何となく、その内父さんみたいに空を飛べるようになるだろうと思ってた。何となく、父さんみたいな強い体になれると思ってた。
でも、違った。
頑張らなければ、父さんみたいにはきっとなれない。
何か、面倒だなあ、と思った。ドラゴン、生態系の中で一番上に立っている生物。海の中ではそうじゃないけど、陸と空では頂点に立っている生物。
ドラゴンより大きい生物何てこの世界には居ないし、強い生物も居ない。そう、父さんは言った。
でも、そうである為には、ただ生きているだけじゃ駄目なんだろう。
他の生物と同じように、頑張らなきゃいけない。
もう一度、崖縁を見ようとして、何だか眠気が襲って来た。
そう言えば、食べたばっかりだったっけ。どうしよう。いっその事、一回寝ちゃおうか。
気が付くと、もう夜だった。お昼寝のつもりだったんだけど。
「あー……お腹減った……」
父さんは、近くで体を丸めていた。ゆっくりと、呼吸で体が小さく上下している。多分、寝ている。
「星で鳥が見えるよー」
……うん、寝ている。そして、僕の食べ物もきっと無い。僕が昼食べた猪の臭い以外、血の臭いとかが全くしない。
月は、今日は明るかった。父さんの鱗が輝いている。傷だらけじゃなかったら、もっと綺麗だろうといつも思う。
僕は、父さんの体がどうしてそこまで傷だらけなのか、それもそこまで良く知らない。
どうして、負けないように、何て父さんは言うんだろう。どうして、そんな強い体を持っているのに、そんなにいつも悩んでいるような顔をしているんだろう。
でも、もう一度崖の下を見てみると、負けないようにって昔から言い伝えられているのは何となく分かった気がした。
月の光も当たっていない真っ暗な崖の下。それは、昼間見た時よりも怖かった。何があるのか、分かっているけど分かっていない。
僕が見たのは、昼間の森で、この夜の森がどうなってるのか、分かっていない。
でも、怖かったけれど、何だろう。怖くなかった、いや、飛んでみたい、と思えた。父さんは寝ている。もし飛べなかったら、僕は死ぬのだろう。
そう考えると、とても怖かった。この夜の森に飛び込んで来る事も、飛び込めたとしても、父さんが起きるまで帰れない事も。
でも、だからこそ、今飛んでみたいと思ってもいた。
怖いのが好きなのだとも思えなかった。やったら後悔するとも思っていた。
でも、それでも飛んでみたかった。
前に足を出すと、くっついた僅かな砂が崖から落ちて行く。背中の翼を広げた。自分の体重を持ち上げるのはまだ、無理な気がした。
けれど、滑空位なら出来る。それは、父さんに言われたからか、無理じゃないと思えた。
大きく息を吸う。冷たい空気が体の隅々にまで行き渡る感じがして、体が震えた。
体に力を入れて、いや、抜いた方が良いかな。息を吐き、体が締まる感じがする。一旦目を閉じた。
眠気は全く無かった。目覚めぱっちりだった。
もう何度か、息を吸って、吐いた。僕の中の雑な思いが消えていく感じがする。尖って行く感じがする。
頭が綺麗になっていく感じがする。
目を開けて、誰に言うでも無いけれど「行こう」と小さく呟いた。心臓が高鳴っている。怖さもあったけれど、ワクワクの方が強かった。
軽く四足を曲げて、一瞬恐怖の方が強くなる。
でも構わず、勢いに任せて、翼を広げて、前に跳んだ。飛べる、と思った。
叫ぼうとして、必死で堪えた。それは怖いとか、そういうものを留めようとした訳じゃなくて、単に父さんが寝ている間に飛び降りて下に行けたと自慢したかったからだった。
夜の寒い空気が僕を強く撫でまわして、僕は一気に落ちて行く。耳からはびゅうびゅうとその風の音が聞こえて来る。
でも、背中の翼を広げているとそれを切り裂ける感覚がした。同時に、空気を操れるような感覚もした。
怖さは、飛び降りた直後、叫ぼうとした時が最高で、それからはもう余り怖くなかった。
落ち続けて、でも翼をちょっと動かせば、僕の体は自然とただ落ちるだけじゃなくなっていった。
今まで飛んだ事何て無いのに、初めから覚えていたかのように僕の体は全くの淀みなく姿勢が変わり、鳥のように滑空出来ていた。
足も収める窪み何て無いのに、自然と在るべき場所に収まっている感じがする。
耳から聞こえていた風の音は、もう、荒々しいものじゃなくなっていた。ひゅう、と優しく僕の体を包み込んでいるようだった。
もう、怖さ何て微塵たりとも無かった。
何だか、ちゃんと滑空出来た喜びも余り無い。本当に、気付けば出来ていたような感覚。驚きも余り無い。
けれど、とても穏やかだった。




