包囲網
「えぇ~? もう行っちゃうのぉ?」
師匠が俺の背中にもたれ掛かってくる。そのまま抱き着いてきて、すりすりと身体を寄せされると、何とも振り払いがたい誘惑が完成してしまう。
「ねぇ~? もうちょっとだけ、師匠と遊ばないかぁ♡」
「駄目です。これ以上居ると、行きたくなくなりますから」
「良いじゃん別にぃ。一緒に退廃的な生活に溺れようぜぇ?」
……それも良いかもしれない、なんて。らしくないことを考えてしまう。実際、俺の心は揺らぎかけていた。
理由は当然、クロエの失敗が後を引き摺っていた。あれほど濃密な死、おいそれと見つかるものでは無い。だというのに、俺は失敗した。
体感的にはあと2歩、足りない。もう少し継続的かつ、俺が慣れる前に殺して貰わなければ、恐らく死ぬことは出来ないだろう。
本当に見つかるのだろうか。実は俺を殺す術などなく、俺は狂うことも許されず、生き続けるしかないのではないか。そんな不安が、漠然と襲ってくる。
「フシ君。私はどんなフシ君でも受け入れるよ。良いんだよ、もう終わっても」
耳元で、師匠の言葉が囁かれる。少し、ほんの少しだけ……休んでも、良いのかもしれない。そんな緩んだ気持ちが滲み出る。俺はナイフを取り出して、そのまま自分の喉に突き刺した。
「ふんっ!」
「……本当に君は、度し難いねぇ」
自殺して平常心を取り戻す。俺はそのまま師匠と向き合って、彼女の身体を抱きしめた。暖かい。そして、優しかった。
「ありがとう、師匠。でも、俺は行きます」
「あ~あ……君はなんて愚かなんだろうなぁ。行く先々で女の子を誑かして、慰めて、傷付けて。そうまでして自分のことを貶めたいのかな?」
「……ワガママなんですよ、俺は」
不死であるなら、只人と関わるべきではない。そんなことは分かっている。今まで俺が関わってきた人達を、結果的に苦しめているのも理解している。
それで良い。そして俺を憎んで、恨んで、殺してくれ。それだけが、俺の望みなのだから。
「師匠、今度も助けてくれますか?」
「もちろん。君が望むならね」
「ありがとうございます。大好きです、師匠」
「……偶には、用も無く帰ってきなよ。疲れたなら、いつでも待ってるからさ」
師匠は聖母のように微笑むと、俺の頬にキスをした。やはり、この人には敵う気がしない。いつまで経っても、子供扱いだ。
「いってらっしゃい、フシ君」
「いってきます、師匠」
俺は微笑む師匠に見送られながら、新たな世界へと向かった。
9
「行っちゃったかぁ……全くもう、フシ君はせっかちなんだから」
その唇に残った熱を指で掬って、空に離す。ここは永劫の薔薇園。風景も空気も、変わることは無い。
だが、その空間に亀裂が走る。バキバキと、空間が歪んでいく。その歪みから、真っ黒な何かが滲み出し始める。
「やぁやぁ。フシ君なら、さっき行ってしまったよ? 間が悪かったねぇ」
「ふざけるな……! お前が! ずっと邪魔していたんだろう!!!」
暗闇は形となり、人の姿を取った。それは、かつて不死の男を魅了した女の似姿。真っ黒な髪を乱しながら、その顔は憤怒に染まっていた。
「当たり前だよ。君はフシ君を殺せなかった。もう、君なんて彼は眼中にないのさ」
「うるさいうるさい……! お前様を殺すのは儂じゃ! 儂だけがあやつを穢すのじゃ!」
「ふふ……ふふっ、アハハッ!!!」
「……何が、おかしい」
時空渡りの魔女は笑った。何が殺す、だ。何が穢す、だ。この少女は何も分かっていないのだろう。彼が、一体誰のモノなのか。
「君はぁ……フシ君の好物を知ってるかい……?」
「は……? 何を、言っている?」
「フシ君の好きな服装は? 好みのタイプは? 癖になってる仕草は?」
少女はたじろいだ。ただ、問いかけられているだけなのに。彼女からは、並々ならぬプレッシャーが増していたから。
「数年、フシ君と過ごしていたみたいだけど……その程度で、彼の何を理解したって言うのかなぁ?」
「っぅ……!?」
ざくり、と。少女の右半身が抉られたように消失する。
クロエはその顔を驚愕に染めた。何をされたのか、どうやって攻撃をされたのか、何も分からなかったからだ。
「貴様ぁ……!? 何者じゃ!?」
「分を弁えなよ、死の概念。世界一つ飲み込んで全能にでもなったつもり? 不死でも何でもない私を殺せないなら、フシ君を殺すなんて絶対無理だよ」
影がローズグレイに向かって殺到する。しかし、その全ては見えない壁に阻まれ、彼女の身体を突き破ることは無かった。
「安直だねぇ。もっと高次元の攻撃じゃないと、私に触れることすら出来ないよぉ?」
クロエにとって、それは初めてのことだった。今まで、自分の影は全てを飲み込んできた。阻まれるなど、あり得ないことだった。
「私は時空渡りの魔女、ローズグレイ。君の攻撃は私の時空に、辿り着けるかな?」
「貴様如き、この世界ごと喰ろうてくれるわ!!!」
少女の身体から暗闇が滲み出す。それは薔薇園をあっという間に覆い、そして全てを漆黒へと染めた。
だが、ローズグレイはそのような状況でも笑っていた。まるで、クロエの性能を試しているように。
「良いねぇ。それくらいの気概がなきゃ、試す価値すらないもんね」
「死ね! 魔女め!」
パチン。ローズグレイの指が鳴る。その瞬間、暗闇は消え失せ、先ほどと同じ薔薇園の光景がそこに広がっていた。
「は────?」
「君の敗因は、私の薔薇園で戦ってしまったことだよ」
「く、くそ……!? 何故、影が出んのじゃ……!?」
「確かに君は、世界を喰らう死の概念そのもの。でもさぁ……もし、この世界に死なんてものが存在しないとしたら……君の力は、一体どうなってしまうんだろうね?」
時空渡りの魔女、ローズグレイ。彼女の住まう薔薇園は、彼女の技術の粋が詰め込まれた空間だった。この空間において、彼女は死というものから完全に逸脱していた。
「フシ君のものと違って、私はこの空間限定だけどさ。私に、肉体的な時間は一切流れていない。だから、死ぬっていうのは事実上不可能なんだよね」
「何を言っているのじゃ、お前は……!?」
「要するに、私はこの空間では最強無敵ってわけ。簡単だろ?」
この薔薇園では、彼女の時間は全て止まる。体力も、気力も、その全てが消費されない。だからこそ、死は絶対に訪れないのだ。だからこそ、クロエの力は呆気なく無効化されてしまった。
その絶対を破るためには、本物の不死すらも屠る力が必要になる。今のクロエでは不可能なことだった。
「はーい、つーかまーえた♡ クロエちゃん、げっと♡」
「離せ痴れ者が! 儂に触れて良いのは、お前様だけじゃ!」
じたばたと暴れるが、その圧倒的な体格差には敵うはずもなかった。クロエはひとしきり暴れた後、その身を投げ出した。
「……はよう殺せ」
「えぇ~? 死にたいのぉ? フシ君の悪癖が移っちゃったかなぁ」
「こんな女一人殺せぬ儂に、価値なぞ無い!」
「あ、あぁごめんごめんっ! 泣か、泣かないでぇ~!」
「うぅぅ……! な、泣いておらぬ、わぁ……!」
ローズグレイ。途方もない時を生きてきた彼女だったが、そのコミュニケーション能力は完全に死んでいた。
彼女は、お姉さんぶるのが少し上手いだけの、ただのコミュ障だった。
「く、クロエちゃん! 私は、貴女とお友達になりたいの!」
「……世迷い言を。お主とて、お前様を独占したいと思うておるのではないのか?」
クロエは未だ嗚咽を溢しつつも、精一杯彼女を睨んだ。直感的に分かっていた。彼女もまた、あの男に魅了された一人だ。それも、自分とはほど遠いほど強く、熱烈に。
「当たり前だよ。でもね、それ以上に私は、あの子に安らいで欲しいんだ。罪を忘れて欲しいわけじゃない。ただ、償い続けるだけの人生なんて、悲しいじゃないか」
「…………」
いつか死するとしても、その時がいつの日か来るとしても……その道筋が苦難で満ちていなければならないなど、そんな道理は無い。彼がそう思い込んでいるのなら、その間違いを正してあげたい。
ローズグレイの献身は、常に彼の平穏だけを願っていた。
「儂に、何をしろと?」
「……とあることを、手伝って欲しい。フシ君が安らげる世界を、あの子が終わるための世界を……作ってあげたい」
ローズグレイといえど、一から世界を作るのは難しかった。理論は完成している。世界のシステムも構築出来た。ただ、世界を形作るリソースだけ、不足していた。
世界を作るのだ。途方もないエネルギーが必要となる。こればかりは、ローズグレイとて一朝一夕では用意出来るものではなかった。
「なるほどな。儂を土台にするつもりか」
「もちろん、分け身として君の意識は残る。色々と制約は付くかもしれないけど――」
「お前様を常に感じられる……か。中々、悪くないではないか」
自らの血肉であるその世界に立つ、お前様。どこに行こうと、彼は常に儂の腹の中も同然。良い。良いではないか。
クロエの顔が愉悦に歪む。
「どお? 協力、してくれる?」
「もとより儂に拒否権は無い。魔女よ、しくじってくれるなよ?」
「もちろんっ! フシ君を虜にする、すんごい世界を作っちゃうよぉ!」
着々と、彼を捕らえんとする勢力は拡大していた。じわり、じわりと……その手は少しずつ不死者へと伸びている。
「へっくしょん! なんかここ、埃っぽいなぁ」
当の本人の知らぬところで、計画は進み始めていた。もう、止まることは無い。




