09 5年ぶりの元婚約者
「お断りしてもいいのですが…」
はあ……と深い息をつきながら、ハミルトンがレイナに一通の手紙を差し出した。
その封筒に見覚えがあった。
繊細な金の模様で縁取られたそれは、ルース王子からのものだろう。
「私が読んでもいいんですか?」
レイナの問いにハミルトンが頷く。
すでに封が切られたその手紙を開くと、懐かしくも見慣れた筆跡が目に入った。
そこには、形式的な挨拶に続き――
『どうしても面会を受け入れないつもりなら、こちらにも考えがある』
そんな脅しに近い来訪の申し出が、優雅な筆跡で綴られていた。
(何これ。一体どれだけ断ってきたのよ……)
あんなに王子に過保護だったハミルトンは、もう過去の彼のようだ。
側近を辞するに至るまでに、相当の思いがあったのだろうか。もう王子の顔も見たくないといった心境なのかもしれない。
それでも、温厚なルース王子にここまで言わせるのだ。
これ以上怒らせないためにも、一度くらい面会を受けた方がいい気がした。
「お受けした方がいいんじゃないですか?」
「ルース王子に会いたいのですか?」
ハミルトンに即座に言葉を返されて、レイナは自分に面会を求められていたのかと気づく。
「会いたい……?」
会いたいか、と聞かれたら。
――別にどちらでもいいような気がする。
レイナは、うーん?と首を捻る。
その様子を見ていたハミルトンが穏やかに微笑んだ。
「確かにレイナの言う通り、一度くらいお受けしてもいいかもしれませんね」
どこか機嫌が良さそうに応えた彼に、レイナは頷いた。
「相手は王族なんですから、ハミルトンも少しは気をつけた方がいいと思いますよ」
名前で呼び合うことにすっかり慣れたころの、昼下がりのことだった。
それから数日後、早速ルース王子の来訪があった。
「レイナ……!おかえり。また会えて嬉しいよ。本当に……ずっと会いたかったんだ。心配していたんだよ」
「あ、はい。おかげさまで私は、こうして元気にしております。ルース王子様もお元気そうでなによりです」
声を震わせたルース王子に、レイナは言葉を選びながら答える。
少しクセのある優しい桃色の髪に、垂れ目がちな翠色の瞳。
上質な生地の光沢が際立つ端正な装いが、細身の彼によく似合っている。
レイナにとって5年ぶりの再会になるルース王子は、以前とまったく変わらないように見えた。
――彼にとっては数ヶ月ぶりの再会なのだから、それも当たり前のことだが。
その変わらない姿を見ていると、変わってしまったのは自分の心だけなのだと気づく。
あれほど好きだったのに――もう彼を見ても胸は跳ねなかった。
時間のズレには慣れたはずのレイナだが、くらりとめまいがするような感覚がして、そっとこめかみに手を当てた。
「大丈夫ですか、レイナ。頭が痛いのなら、治しますよ」
ハミルトンに心配そうに顔を覗き込まれ、レイナは慌てて首を振る。
治癒魔法も使える彼は、頭痛を治そうとしてくれているのだろう。長い指先が、こめかみに向かって伸ばされる。
ハミルトンは今日も安定の優しさを見せていた。
――けれどその顔が近い。
「なんでもないですよ。心配をかけてすみません」
さりげなく制するつもりで、伸ばされたハミルトンの指先を軽く掴んだ瞬間、はっとした。
触れたまま、ハミルトンの動きも一瞬止まる。
(ちょっとこれ、手を握ってるのと同じじゃない!何してるのよ、私!)
意識した途端、客人の前で手を握り合う二人という、よく分からない状況のまま固まってしまった。
「まあ、とても仲がよろしいのね」
かけられた声に固まりが解け、レイナは顔を向けた。
そこには、ルース王子の婚約者として、一緒にこの屋敷に来ていたカトリーヌ公爵令嬢が、余裕のある笑みを浮かべていた。
「予言の聖女様とハミルトン様が婚約したなんて、信じられなかったけど……こうして見ると、とてもお似合いの二人ね」
そう言って、勝ち誇ったように小さく笑う。
カトリーヌは、レイナがまだルース王子に未練があると思っているのだろう。
(だからって、お似合いとか言われても……)
その言葉に、戸惑うしかない。
この顔立ちの整った男と並んで、どこがお似合いだと言えるのだ。
レイナは〈予言の聖女〉という肩書きは持つが、見た目も中身も、ただの普通女子だ。
いくらマウントを取りたいからといって、その言葉には無理がある。もう少し返しやすいことを言ってほしい。
「それは―」
「カトリーヌ様に、祝福のお言葉をもらってしまいましたね」
「それはさすがにないでしょう」と言いかけて――嬉しそうなハミルトンの笑顔に、レイナは何も言えなくなる。
(なんて答えたらいいのよ……)
ただ、小さく頷くことしかできなかった。
いたたまれない静かさが広がる中、それまで黙っていたルース王子が口を開いた。
「――レイナ、正直に言ってくれ。ハミルトンとの婚約は、安全を確保するための建前だろう?」
「いえ、建前なんかじゃないですよ」
静かに問われ、レイナはすかさず否定した。
「そうなんです。建前なんです」
――なんて、そんな危険なこと言えるはずがない。
偽の婚約は、国と神殿を欺くことになる。
神殿を出て祈りもせずに過ごす日々も、女神の務めの放棄として規約違反になるかもしれない。
罰せられる未来しかない。
絶対に、偽の婚約を認めるわけにはいかない。
「気持ちを確かめ合ったうえで、婚約を結びました。私たちは深く愛し合っているんです」
「ね」と、同意を求めるために、ハミルトンをじっと見つめた。
(絶対に本当の関係をバレないように気をつけましょう?)
声に出さず、視線だけで強くそう伝える。
勘のいい彼なら、きっと伝わるはずだ。
「……っ」
ハミルトンが口に手を当て、すっと視線を逸らした。
(何?!何なの?!ちょっと止めてよ、その反応!)
――本当にやめてほしい。
どうしてそこで照れたような仕草をするのだ。
こんなところまで婚約者らしさの演出をしないでほしい。
これではまるで、本当に人前で愛を囁き合っているようではないか。
照れは妙にうつるのだ。
レイナも急に恥ずかしくなって、内心で意味もなく身悶えた。




