08.完璧な男
「私が出ている間、執務を手伝ってくれたそうですね。エドガーから聞きましたよ。ありがとうございます。……レイナ」
「あ、いえいえ。今日もお仕事お疲れさまです。お世話になってばかりで、私、何もしていませんから」
ハミルトンに言葉を返しながら、レイナはカップの取手に指をかけた。
王都にある魔法使いたちの拠点――魔塔での研究を終えて戻ってきたばかりの彼は、いつもと変わらない様子だ。
動揺を隠すように、ゆっくりと紅茶を口に含むと、花の香りがフワリと鼻に抜ける。
いつもなら心を落ち着かせてくれるその香りが、今日は少しも役に立たない。
――やめてほしい。
婚約者らしく見せるためにレイナから提案した名前呼びだったが、彼はレイナの名を呼ぶ前に、必ず一瞬だけ間を置くのだ。
(ちょっと!そんな風に、いちいち口ごもらないでよ。恥ずかしくなるじゃない!)
わずかに間を置いてから呼ばれる「レイナ」という声が優しくて、まるでレイナが彼の大切な存在になったかのような気にさせられる。
(これも完璧な男だからこそなせる技なわけ?!そういう演出なの?!)
心の中は暴れていたが、レイナだってだてに中身の年を重ねてきたわけではない。
動揺を隠し、ハミルトンに微笑んだ。
「ハミルトン……の淹れてくれるお茶は、今日もおいしいですね」
軽い感じで名前を呼ぶつもりが、思わずレイナもつまずいた。
これではまるで、本当にハミルトンを意識しているみたいではないか。
レイナは内心で身悶える。
「――ありがとうございます」
以前と変わらず淡々と答える彼だが、どこか嬉しそうに口元がほころんで見えるのは――目の錯覚だろうか。
(ダメね。名前呼びは失敗したわ……)
ただ敬称を外しただけだ。
それなのに、こんなにも動揺させられるとは思わなかった。
呼び名に、何か意味があるように思えてしまうのだ。
――あまり良い兆候ではない。
レイナは今回も、この世界に長く留まるつもりはない。
ここがどれだけ安全な場所だったとしても、一生守られるなんて不可能なのだ。
どうせいつかは、これまでと同じように元の世界へ引き戻される。
この世界に執着したところで仕方がない。
元の世界が、レイナにとっての現実だ。
ここが現実と勘違いしてはいけない。
(そうよ。思い出すのよ。だいたいこの人、こんなんじゃなかったはずよ)
レイナの知るハミルトンは、もっと口うるさい男だったはずだ。
神殿の業務をサボるために、来訪したルース王子をなるべく引き留めようとするレイナに、いつでも小言を向けてきた。
『レイナ様、祈りの時間に遅れますよ』
『そろそろ神殿長のところに向かうお時間でしょう』
そう言って、レイナの時間の管理にもうるさかった。
祈りの時間は一日三度もあるというのに、少しくらい遅れたからといって問題なんてないはずだ。
「今日の予知夢はありません」
神殿長にそう報告するだけのために、どこに急ぐ必要があるというのだ。
(ほんと予定に細かい男ね)
――なんて思っていたものだ。
(予定……あ、そういえば)
ふと、思い出した。
(ここに来たあの日は、試験が終わった日の夜だから……目が覚めたら、バイトの日ね)
今回、この世界でどれだけの時を過ごすかは分からないが、少なくともハミルトンの屋敷にいる間は身の安全は守られそうだ。
今回は、長い滞在になるかもしれない。
元の世界に戻った時には、また年と経験を重ねているだろう。
バイト先の大人たちでさえ、年下に見えてしまうかもしれない。
(店長よりも年上になっちゃってるかも…)
貫禄のあるアラフォーの店長を思い出す。
彼より年上になったレイナは――
たとえ体が19歳のままだとしても、もう周りの誰かを好きになることはできない気がした。
現実世界での年齢=彼氏いない歴は、これからも更新されていきそうだ。
(きっと私は一生おひとり様ね……)
知らず、息がこぼれた。
「……心配ごとでも?」
「あ、いえ。このお屋敷はしっかりと守られているので、危険はないと思いますが……。またいつか元の世界に帰ったら、次の日はバイトだったなって思い出してたんです」
少しぼんやりしてしまったようだ。
ハミルトンが心配そうに、少し身をかがめてレイナの顔を覗きこんでいた。
本当にいちいちリアクションが婚約者のそれで、やめてほしい。
「……バイト?」
うっと詰まったレイナの側で、控えていたミラが不思議そうに呟いた。
「短時間だけするお仕事よ。向こうの世界の私は、平民なの。だから、学校に行きながら隙間時間にバイトをして、服を買ったり、遊びに行くお小遣いを稼いでるのよ」
「そんなご苦労を……」
「向こうでは普通のことよ」
ミラに気の毒そうな顔をされて、レイナは笑って手を振った。
「私のバイト先にも、同世代の子はたくさんいるわ。女の子は重いものを持つようなこともない仕事だし」
バイトは、近所のスーパーのレジ打ちだ。
よくあるアルバイトで、よくある学生生活。
それが、元の世界の麗奈の日常だった。
「……女の子、ということは。そこに男もいるのですか?」
「そりゃいますよ。というか……それ、この世界でも普通ですよね?神殿にだって男性の神官様多いですし。前についてくれてた護衛だって男性騎士でしたよね」
「あの、男が……」
「あ、あの人はちょっとヤバかったですね。護衛対象を二回も狙うなんて、さすがにないですよね。――1回目で気づいていたらよかったな〜」
護衛の話に、ハミルトンからひやりとした空気が漂う。
世界一腕のある魔法使いのプライドを傷つけた男を思い出させるべきではなかったようだ。
急いでフォローしたつもりだったが、冷たい空気はそのままレイナに向けられた。
「なんで私が怒られるのよ!」とは口にできない。
この男は怒ると怖いのだ。
レイナは気づかないふりをして、紅茶をまた口に含んだが、心を落ち着かせてくれるどころか、味もしなかった。
「――まあ、これからはそんな危険はありませんが。ちょうど開発していた魔法が完成しましてね」
しばらくの沈黙の後、ハミルトンの声色が柔らかく戻り、レイナはふうと安堵する。
「嵐が収まってからも、ずっと忙しそうでしたもんね。さらに強力な守護の魔法の開発ですか?」
「はい。〈呪い返し〉の魔法です。邪悪な気が、本人に返る魔法ですよ」
「呪い返し……ですか?」
にっこりと微笑むハミルトンの言葉が物騒だった。
レイナはそのまま言葉を返す。
「剣を向ければ剣が返り、毒を向ければ毒が返る。狙ってきた人物も当然ですが、計画した者にまで、しっかりと返る魔法で、陥れようとする者を堕とす、とても便利なものですよ」
「それはとても……」
レイナは「とても物騒な魔法ですね」と、続けようとした言葉を飲み込んだ。
ハミルトンの目が、褒められるのを待っているように、輝いた気がしたからだ。
――気のせいかもしれないが。
「とても画期的な魔法ですね」
そう言って微笑む。
「本当はもっと早く開発に取り組みたかったのですが、呪いの魔法の使用は禁じられている王宮では研究もままならなくて。魔塔に移ってようやく、腰を据えて取り組めたのですが……。
ああ、もちろん、王宮で使用しなくても、王宮にいる者にも呪い返しの魔法は効きますから。もう、危険は払えますから、安心してくださいね」
安心……していいのだろうか。
これからレイナは、バイトどころか、元の世界に帰ることも難しくなるようだ。
そして、予知夢で見た毒がすでに用意されているなら――
レイナに毒を盛ろうとした聖女のミシェルはもちろん、それを渡した公爵令嬢のカトリーナまでに、危険がありそうだった。
(カトリーナ様は、次期王妃様……よね?)
――やめておこう。
物騒な予感が頭をよぎり、レイナはもうそれ以上を考えることを止めた。
「もう、バイトなどする必要もなくなりますね。……レイナ」
「あ、はい」
やはり少しの間を置いて名を呼ぶハミルトンに、レイナは頷いた。




