35. ハミルトンの予言の聖女③
『もう5年も前のことだもの。今は本当に、「お幸せに」って思っているの。恨んでもないし、引きずってもいないのよ』
19歳になったレイナは、ルース王子のことをどこか他人事のように語っていた。
元婚約者の話をしているというのに、レイナの視線は、魔法で出した色とりどりの菓子へと落ちている。
どれにしようかと迷うように、手を伸ばしていた。
その姿に、思わず口が緩みそうになる。
前回の襲撃を予知夢で見ていながら、それを話さなかったと知ったときは、冷えた魔力がじわりと滲んだが――
それでも、『夢を思い出したのは、ハミルトン様のおかげです』と笑顔を向けられると、思わず言葉に詰まった。
誤魔化しだとわかっていたが、不覚にも嬉しさが込み上げた。
その予知夢によって、大神殿にも危険が及ぶことを知り、もはやあそこに置いておくという選択肢はなかった。レイナの滞在先として自分の屋敷を提案した。
拒まれることも、覚悟の上だった。
だが、レイナはあっさりとそれを了承した。
それどころか、自分の婚約者となることまで受け入れて。
『お世話になる上に、婚約者役までしてくれるなんて。王宮と神殿の決まりがあるからですよね。ごめんなさい』
それは、国と神殿が定めた『誰かと婚約を結ばなければ、外へは出られない』という制約を気にしての言葉だろう。
これは――偽りの婚約だ。
婚約を受け入れた理由は明確だった。
それでも、喜びを抑えきれなかった。
『そんな制約、気にすることはありません。婚約など不要です』
そんな否定の言葉は、喉で止まった。
冷静を装ったまま部屋を出る。
扉を閉めたその瞬間、抑え込んでいた感情が弾けた。
制御を失った魔力が空を荒らし、王都一帯に暴風を巻き起こしてしまうほどだった。
二度と、レイナに危険を及ぼすものは寄せ付けない。
そう決めていた。
危険さえなければ、レイナはずっとこの世界に留まる。
――だが。
世界に恒久の平和が訪れれば、〈予言の聖女〉としての役目は終わる。
その時、レイナが元の世界へ戻ってしまうことも、あり得ないとは言い切れない。
別れは、いつだって突然だ。
(世界間を繋ぐ道を……閉じるか)
ふと浮かんだ考えに、息が止まる。
危うい発想だという自覚はあった。
それでも、レイナを失う可能性はすべて排除すべきだった。
それからは、空間の歪みを閉ざす魔法の研究へと没頭した。
魔法が完成したら、レイナに告白するつもりだった。
この数ヶ月で、彼女との距離は確実に縮まっていると感じていた。
拒絶されていないという確信すらあった。
唯一の懸念は、レイナは髪の長い男が好みだという点だが、髪はいくらでも伸ばせばいい。
レイナが気にしていたという、髪の長い男―― ダニエルも、自分の部下ではなかったが、遠方の任務へ飛ばしてやった。
もはや脅威はない。
そう思っていた。
まさか空間を閉じる魔法が完成したのと同じころに、レイナが異世界に戻っていたとは、想像すらしていなかった。
すぐに屋敷に戻ったのに、階段一面に散らばった花々を見た瞬間、足が止まった。
どこにもいない彼女に気づき、理性が吹き飛んだ。
* * *
「あのときは――ショックで、危うく屋敷を破壊するところでした」
ハミルトンが、わずかに口元を緩める。
「屋敷を……ですか?」
過去を懐かしむような穏やかな声に、レイナは思わず言葉を繰り返した。
「空間を固く閉じてしまったせいで、迎えに行くのが遅くなりましたが…… レイナはその前に、あちらの世界へ戻っていました。階段から足を踏み外したとき、怪我がなかったのは幸いでした」
彼が、しみじみとした様子で頷く。
「空間……」
以前ハミルトンから聞いた「空間の歪みを閉じる魔法」。それは、世界そのものを閉じる魔法だったのだろうか。
触れてはいけないものに触れた気がした。
王宮からハミルトンの転移魔法で屋敷へ移動したレイナは、彼からこれまでの話を聞いた。
目の前の庭園には、レイナが好きなパステルカラーの花々が、穏やかな風に揺れている。
気になる言葉はいくつもあったが、レイナはカップを手に取った。
魔法で用意してくれた紅茶を、ひと口含む。
花の香りが、ふわりと広がった。
「あの……あのとき出会ったのが、ハミルトンだったこと――忘れていてごめんなさい」
幼いころの、この世界の記憶は曖昧だ。
怖い夢と、命を狙われる恐怖。
元の世界では、それを思い出さないようにしていた
それでも、花吹雪が舞うあの光景だけは、ときおり胸に浮かんだ。
「子どものころの、一番きれいな思い出だったのに……」
「――いえ。それを知れたのが、今でよかったと思います。これまでは、年の差がありましたから。気持ちが重ならなければ、ただの思い出のままでした」
(確かに……そうかも)
ハミルトンの言葉に、小さく頷く。
19歳でこの世界に来るまで、レイナは彼を男性として意識したことはなかった。
ただの「ルース王子に過保護な口うるさい補佐官」で、恋愛対象にもならない、世代の違う大人だと思っていた。
きっと、ハミルトンにとっても同じようなものだったはずだ。
それに、あの世界に戻り、彼に会えなかった時間。
――あの10ヶ月。
あの時間があったからこそ、自分の気持ちははっきりと形になった。
(あら……?)
ふと、思い出す。
ハミルトンは昨日、『世界間の時間軸を繋ぎましたから』と話していた。
これまで、この世界で過ごした時間は、元の世界では存在しないものとして扱われていた。
だとしたら――
それが、繋がったら?
(今ごろ……何が起きてるの?)
胸がざわついた。
コンロには作り終えたカレー。
冷凍庫には、買っておいたアイス。
それを残したまま、レイナはこの世界に戻ってきた。
今ごろあの世界では、何が起きているのだろう。
自分がいなくなったことに気づいて、探しているかもしれない。
家族を、ひどく驚かせてしまっているかもしれない。
「レイナ?……具合が悪いのですか?」
黙り込んでしまったせいだろうか。
ハミルトンが心配そうに、こちらを覗き込んだ。
「あ、いえ……。世界間の時間軸を繋いだって聞いたことを、思い出してしまって。今ごろ、向こうで騒ぎになってるかもしれなくて……」
胸の奥に、静かな不安が広がっていく。
「家族に、何も言わないまま来てしまったなって……」
この世界を望んだ気持ちに、迷いはない。
それでも帰る道が閉ざされたことに、心のどこかがわずかに軋む。
せめて家族は悲しませたくなかった。
「その点は大丈夫です。レイナと会えましたから、時間軸の繋ぎは解いています。
世界の繋がりは、これまでと変わりません。ご家族も、いつも通り過ごされているはずです」
ハミルトンが優しく微笑む。
「これで、レイナはここで安心して暮らせますね」
(それって安心……なのかしら?)
安心と言い切っていいのか分からない。
それでも、その道を選びたいと思ったのは、自分自身だ。
「とても寂しかったですが……でも、あの10ヶ月があって、よかったのかもしれません」
祈るように過ごした、あの時間を振り返る。
「今度この世界に来たら、もう戻らないかもしれない。そう思いながらも、それでも来たいって思えたんです。
今ここに迷わずにいられるのは、あそこで過ごした時間があったからですから」
「レイナ……」
ハミルトンの声が、かすかに揺れた。
レイナはそんな彼をじっと見つめる。
少し重たいところはあるが、ずっと会いたかった人だ。
ずっと気になっていた、抱きしめられて愛を告げられていた人は、自分だった。
それは、とても幸せなことだと思えた。
「予知夢が当たってよかったです」
「予知夢……ですか?」
ハミルトンが目を瞬かせる。
「はい。髪の伸びたハミルトンを見ました。あのとき一緒に見た夢は――私の危険を知らせる夢だったんですね」
「危険……?」
「あ、魔獣に襲われる夢を見たとき、一緒に見たんです。きっとどちらも、元の世界に戻ることを暗示する予知夢だったんでしょうね」
ふふ、と小さく笑った。
「――レイナ」
(マズいわ)
低く、静かに呼ばれた声に、レイナは肩を揺らす。
ついうっかり、余計なことを話してしまったようだ。
「その予知夢……私は聞いていませんが」
ひやりと冷たい空気が辺りを包んだ。
その声がわずかに震えていた。
レイナは視線を逸らして、薄く氷が張っていく紅茶を見つめる。
この男は、怒ると本当に怖いのだ。




