30. キッカの、予言の聖女様③
『ちょっと見てくるわね』
そう言ってレイナ様が部屋を出た、その直後だった。
(……今のうちに)
通信石を取り出す。
ビッ!と魔力を流し込み、石を砕こうと力を込める。
その瞬間だった。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
死の予感にも似た悪寒に、恐る恐る顔を上げると――
そこにいた。
いるはずのないこの部屋に、ハミルトン様が立っていた。
「どうして……」
漏れた声が、恐怖で震える。
どうして、通信石を作動させてもいないのに、ここに現れたのだ。
「『どうして』……ですか?」
ふっと口元を歪め、ハミルトン様が冷酷に笑った。
「お前が裏切らないよう、この石を取り出した瞬間、お前の居場所につながるよう、探知魔法を忍ばせていたのですよ」
いつの間にか取り上げられていた通信石が、ハミルトン様の手の中にあった。
それを見せつけるように掲げると、指先から塵へと変えていく。
サラサラと光の粒子となって消えていくその石が、キッカの未来を示すかのようだった。
ハミルトン様の視線が、ゆっくりとキッカを射抜く。
その輪郭が、わずかに揺らいで見えた。
――いや、違う。
揺れているのは、空気の方だ。
(……魔力……?)
息を呑む。
抑えきれていない魔力が、周囲の空気を歪めていた。
それは、目に見えるほどだった。
(怒ってる――!!)
喉が、ひりつくように乾いた。
ハミルトン様の顔には、血の気がまったくなかった。
――いや、違う。
冷たい魔力で、凍てついているのだ。
あれは、もはや人の体温ではない。
「すぐに合図を送れ――そう、言いましたよね。忘れましたか?」
静かな声だけが部屋に響く。
空間を歪めるほどの重い魔力を纏い、ハミルトン様の手が、ゆっくりとキッカの方へ伸ばされた。
(終わった……)
逃げ場は、どこにもない。
キッカはぎゅっと目をつぶった。
そこに――
救いの手が差し伸べられた。
「ハミルトン」
あの慈愛に満ちた優しい声が響く。
レイナ様がハミルトン様の注意を惹きつけてくれたおかげで、キッカを射抜いていた冷たい視線が外れた。
向けられるはずだった禍々しい魔力の圧が霧散し、キッカは、死の淵から辛うじて引き戻された。
(助かった……)
猛烈な安堵に、思考が飛んだ。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
呆然としている間に、いつの間にか全身を締め上げられていた。
ハミルトン様の魔力で作られた、冷たく、逃れられない紐だ。
抵抗する間もなく、キッカはそのままどこかへ放り出された。
ガアアアアアアッ!!
響き渡る咆哮に、はっと我に返る。
気がつくと、魔獣に取り囲まれていた。
(元の世界……に戻されたの?)
足元は冷たく乾いた大地だった。レイナ様の部屋の温もりは、もうどこにもない。
キッカは、魔獣の群れの中に放り込まれていた。
ここを討伐するまで帰ってくるな。
――そういうことなのだろう。
魔獣なんて、別に怖くない。
さっきのハミルトン様に比べたら、全然マシだ。
吠える声がうるさいし、滴る涎が気持ち悪いだけだ。
こんなのはキッカの手にかかれば、簡単に処理できる。
けれど、数が多い。
常識では考えられないほどの魔獣の群れに、ハミルトン様の嫌がらせを感じた。
(ほんとに、目つきが悪いだけじゃなくて、性格も、根性も悪いんだから)
(狭量だし!疑り深いし!)
(すぐ、根に持つし!)
(……ほんと最悪!)
ハミルトン様を罵りながら、魔獣を倒していく。
けれど、その数が減ることはない。
あの男は、本当に最悪の上司なのだ。
(あ……)
突如、視界が巨大な影に覆われた。
見上げた先に、巨体があった。
水色の毛並み。
頭から伸びた2本の触手。
――ラビガイだ。
見上げるほどの巨体を誇るラビガイが、水色の毛並みを逆立たせ、キッカを睨みつけていた。
頭上から伸びる二本の触手が、まるで意思を持つかのように不気味に蠢く。
粘液をまとったそれが、鈍く光っていた。
ふと、『どうぞ』と渡された置物が脳裏に浮かぶ。
それと同時に、『キッカさん、大丈夫よ』と優しく微笑んでくれたレイナ様の顔がよぎった。
「うわあああん、レイナ様〜!!」
会いたい。今すぐ、会いたい。
涙がぼろぼろとこぼれる。
ここにレイナ様がいたら、きっと優しく慰めてくれるのに。
けれどあの冷酷な上司に、レイナ様との絆を引き裂かれてしまった。
あの男は、もう二度と会わせてくれないかもしれない。
うわあああん、と泣きながら――ラビガイを叩き伏せる。
さらに、途切れなく襲いかかってくる魔獣たちを、次々と倒していった。
そうして、どれだけの時間が経ったのか――
息をつく間もないまま、魔獣を倒し続けていた、そのとき。
気づけば、すぐ近くにミラが立っていた。
「ミラ……」
「ちょっと、まだこれだけしか倒してないの?もっと訓練した方がいいんじゃない?」
キッカはぐっと口を引き結ぶ。
「手伝いに来てくれたの?」
――そう言いかけた言葉は飲み込んだ。
こんな意地悪な魔法使いが、人助けを考えるはずがない。
キッカは顔をしかめる。
「……なによ。何の用よ」
「なによ。その言い方」
質問をしただけなのに、これ以上ないほど嫌な言い方で返される。
さらに、はあっと、これみよがしにため息までつかれた。
「レイナ様が呼んでるから迎えに来たのよ」
「え……」
「いい?ちょっと呼ばれただけって忘れないでよね。私がレイナ様の護衛なんだから」
ミラの自慢に、むうっと口を尖らせる。
本当に、魔法使いなんて、性格に難ある奴らばかりだ。ミラなんて、自慢話ばかりする。
腹いせに、魔獣へ向けて特別大きな魔法を叩き込む。
「ふうん。私はね、レイナ様に『一緒に暮らそう』って言われちゃったの。私がレイナ様の部屋の、初めてのお客さまなんだって。ご飯だって作ってくれたし。カレーっていう、すっごくおいしいのをね」
ふふんと笑って見せると、ぐっと唇を噛んだミラが、八つ当たりのように周りの魔獣へ大きな魔法を叩き込む。
あんなふうに周りに八つ当たりするなんて、さすがハミルトン様の忠実な部下だ。
性格が悪すぎる。
そんな不毛なやり取りのあと――
余計なことは話すなという忠告を受けながら、キッカはレイナ様の元へ連れられて行った。
(やっぱり、さっき対峙したラビガイに似てる……)
キッカは、手の中の置き物をじっと見つめた。
「気に入ってくれた?その子は、昔から私の部屋にいる子で、ラビちゃんって呼んでたのよ」
気にいって、見ていたわけじゃない。
けれど、レイナ様が『ラビちゃん』と呼ぶなら、やっぱりこれは、あの魔獣ラビガイで間違いないようだ。
「ラビガイ……」
ぽつりと、口から漏れた。
「まあ、名前を付けてくれたの?『ラビガイ』ちゃん?なんだか強そうで、とってもいい名前ね」
レイナ様が、嬉しそうに微笑む。
「……私の方が強いです。ラビガイなんて、何匹いたって負けません」
ラビガイなんかが褒められたのが無性に悔しくて、キッカは思わずムキになって言い返してしまう。
「キッカさんは強いのね。頼もしい魔法使いさんだわ」
柔らかな声音で褒められ、キッカの心がふわりと浮き立った。――その、瞬間だった。
「私は、何万匹いようとも負けませんよ」
横から、さも当然だという顔でハミルトン様が割り込んできた。
「あ、はい……」
レイナ様は、少しだけ戸惑ったように頷く。
それにも関わらず、あの男はさらに褒められる言葉を待っていた。
「あの……ハミルトンは、とても頼もしい魔法使いですね」
レイナ様が気を遣ってそう言うと、ハミルトン様は満足げに、深く頷いた。
(……ほんと、そういうところ!)
キッカの上司であるハミルトン様は、本当に器の小さな男だ。
狭量で、自慢しいで、魔法使いの嫌なところを煮詰めたような男だ。
キッカとレイナ様の会話にまで、平然と割り込んでくる。
キッカは、ラビガイの置き物をぎゅうっと握りしめた。
「キッカさんは、とてもラビちゃんを気に入ってくれたのね。そんなに大切にしてくれて嬉しいわ」
レイナ様が嬉しそうに目を細めていた。




