29. キッカの、予言の聖女様②
優しい声だった。
張り詰めていた肩の力が、ふっと抜ける。
心にそっと寄り添うような、柔らかさがあった。
絶望の中で泣くしかなかったキッカに、差し伸べられた救いのような声。
呼ばれたのは、キッカの名前ではなかったが――
その声音を聞いた瞬間、誰なのかが分かった。
あんなふうに、誰かを気遣うように名前を呼ぶ人間を、キッカは一人しか知らない。
ミラが、何度も自慢していた相手だ。
顔を上げると、その人がキッカを見つめていた。
覗き込んできたその瞳には、キッカを案じるような、柔らかな光だけが宿っている。
少しだけ下がった眉と、結ばれた薄紅色の唇。
その整った顔立ちが心配そうに曇る様子は、見る者の胸を締め付けるほどに慈愛に満ちていた。
彼女の周囲だけ、時間の流れが凪いでいるかのような、穏やかな空気が漂っている。
(この人が――)
魔法使いとも、普通の人間とも違う。
睨んできたりしないし、怯えや蔑みの色もない。
ただ真っ直ぐに、キッカを見つめている。
『レイナ様は、すっごく優しく『ミラ』って呼んでくれるんだから』
『お菓子だって、『ミラも一緒に食べよう?』って誘ってくれるのよ』
『レイナ様が眠るまで、毎日ずっとおしゃべりしてるの』
――魔塔に来るたび、ミラがいつもドヤ顔で話していた自慢話が、ふと脳裏をよぎる。
(……嘘よ。いくら〈予言の聖女〉様でも、ミラみたいな子に、そんな優しくしてくれるわけないじゃない)
以前はそう思って、顔を合わせるたびにミラを睨みつけてやった。
ミラはすぐ自分のことを自慢するし、そのくせ、こっちを見る目はいつも不機嫌そうだ。
(ほんと、感じ悪いんだから)
だから、先に睨み返しただけだ。
どうせ向こうも、同じように思ってるんだろうけど。
――でも。
今なら、ミラの言葉が本当だったとわかる。
念のために名前を確認すると、やはりレイナ様で――
それまで張り詰めていたものがほどけて、わっと泣き出してしまった。
『帰れなくて、ここにいたの…?』
そう尋ねられた。
――そうだ。レイナ様を見つけるまで、帰ることは許されなかった。
泣きながら頷いた。
名前も聞いてくれた。
キッカの名前を、可愛いと言ってくれた。
『お腹は空いてない?』
そうも聞かれた。
魔法で出したご飯を食べたばかりだったから、『うん』と答えたつもりだったが、ご飯までご馳走してくれると言ってくれた。
しかも、レイナ様の手作りだ。
けれど――
ハミルトン様の命令を忘れたわけじゃない。
『レイナを見つけたら、すぐに合図を送りなさい。迎えに行きます』
『いいですか?すぐに、ですよ』
そう念押しされている。
すぐに連絡しなかったことが後でバレたら、どんな目に遭わされるか分かったものではない。
それでも、目の前に差し出された手と優しい声に、心は抗いようもなく揺れ動いた。
『一緒に来てくれる?』
そんな温かな言葉で誘われたのは、生まれて初めてだ。
レイナ様の作るご飯を食べてみたい。
レイナ様の過ごしている場所も見てみたい。
――それに、繋いでくれた手が。
きゅっと握られたその手のあたたかさが、あまりにも心地よかった。
離したくない。
ただその一心で、キッカはハミルトンのことなど忘れて、握り返していた。
レイナ様の家は、こぢんまりとした小さな建物だった。
物欲のない、聖女様らしい簡素な棲家だ。どきどきしながら、そっと足を踏み入れる。
振る舞われたご飯は、びっくりするくらいおいしかった。
「カレー」と教わった、初めて食べる味。
魔法で空腹を満たしていたはずなのに、あまりのおいしさに、思わずおかわりまでしてしまった。
『さっき買ってきたのよ』と差し出された冷たいアイスクリームまで、つい手を伸ばしてしまう。
ご飯のあとは、お風呂まで用意してくれた。
ミルクの香りが立ち込める、やわらかいお湯だった。
服も洗ってくれると言われた。
洗浄魔法で十分なのに、と一瞬思ったが、『その間、私の服を着てね』と微笑まれて、思わず頷いた。
――こんなふうに、誰かに世話を焼かれるなんて、生まれて初めてだ。
湯上がりにレイナ様の服を身にまといながら、キッカは心の底から思った。
もう二度と、あんな殺伐とした世界には戻りたくない。戻る必要なんて、どこにもないのだと。
レイナ様の部屋は、控えめに言っても、不思議な部屋だった。
部屋のあちこちに、置物が飾られていた。
可愛い仕様だったが、あれは――
紛れもなく、キッカもよく知るあの魔獣たちそのものだった。
『これもどうぞ』
そう言って渡されたものは、水色の毛並みに、頭から伸びた2本の触手が生えていた。
――ラビガイの置物だ。
(なんでこんなのを……?)
思わず、じっと見入ってしまったが、そこにかけられた声に、はっと我に返った。
『向こうの世界で何があったの? 空間の歪みに落とされたって言ってたよね?――誰に、どうしてそんなことをされたの?』
ハミルトン様です!
あの酷い上司が、嫌がる私を空間の歪みに落としたんです!
――そう、声を大にして訴えたかった。
けれど、ハミルトン様にかけられた「誓約の魔法」が、冷たい鎖のように喉を縛り上げる。叫ぼうとした言葉は圧し潰され、喉の奥で音もなく消えていった。
ぱく、ぱくと、唇だけが動く。
言葉にならない。それが、もどかしい。
それでも、レイナ様はそんなキッカの状況を分かってくれた。
質問に答えられるだけでいいと言ってくれたのだ。
『キッカさんも、ハミルトンの部下なのかしら?』
そう尋ねられて、あんな男が上司なんて、認めるのも嫌だったが、渋々ながらもゆっくりと頷いた。
『ハミルトンは――みんなは無事?』と聞かれたときは、一瞬だけ言葉に詰まった。
ハミルトン様が無事なのは、間違いない。
けれど、魔塔のみんながどうなっているかなど、正直なところ分からない。
レイナ様が姿を消してから、ハミルトン様の機嫌はずっと最悪だった。
その苛立ちは常に周囲へ撒き散らされていた。
今なお皆は、過酷な実験に付き合わされているかもしれない。
(でも……私のほうが、よっぽど大変だったし)
誰よりも酷い目に遭ったのは自分だ。
みんなの心配までしている余裕なんて、あるはずがない。
(多分……大丈夫でしょ)
そう自分に言い聞かせて、キッカはゆっくりと頷いた。
それを見たレイナ様は、安堵したようにふっと息を吐き、やわらかく微笑んでくれた。
『あなたと出会えて、良かったわ』
そう微笑まれた瞬間、胸が熱くなった。
キッカだって、レイナ様と出会えて、とても幸せだった。
『ここで一緒に暮らしましょう』
――願ってもない言葉だった。
あの世界に帰るくらいなら、レイナ様のいるこの世界で一生を終えたい。そう心から願った。
一緒に暮らすなら、レイナ様に迷惑はかけられない。野営には慣れているし、眠る場所ならどこでもいい。魔物の影すらないこの世界なら、地面の上だって快適なくらいだ。
本気でそう思ったのに、レイナ様は一緒のベッドで寝ようとまで言ってくれた。
家族にまで紹介してくれるらしい。
色んなところにも、連れて行ってくれるみたいだ。
嬉しすぎて、どうしていいか分からなくなるくらいだった。
(もう、あんな世界には帰らない。ハミルトン様へ連絡するための通信石なんて、あとで壊しちゃおう)
そう考えて、幸せな未来を夢見たのだ。




