28.キッカの、予言の聖女様
「キッカさん。――良かった、その服も持って帰れたのね」
「レイナ様……!は、はい!ハミルトン様が運んでくれました」
「そうなの?」
目の前のキッカは、出会ったときと同じ格好をしていた。小柄な体には少し大きすぎる、深いフードのついたローブ姿だ。
あのとき着ていた服は、洗濯して乾燥まで済ませたのに、手渡せないままだった。
あんなに急な移動だったにも関わらず、ハミルトンはそこまで気づいてくれたらしい。
「キッカさんの服に気づいてくれたんですね。ハミルトンは、すごく気が効く上司ですね」
「ありがとうございます」
レイナの軽口に、ハミルトンが嬉しそうに微笑んだ。
「レイナ様!ハミルトン様は、すごく……」
そこで、キッカの言葉が止まる。
何かを思い出したように、一瞬、肩がびくりと震えた。
そのまま、続きの言葉は出てこない。
唇だけがかすかに動いて、声にならなかった。
やがて、何かを訴えるようにレイナを見つめて――ぽろりと、涙がこぼれた。
(……どうしたのかしら)
理由は分からない。
けれど――あの世界での出来事を思い出させてしまったのかもしれない。
「つらいこと、思い出しちゃったのね。ごめんなさい」
レイナはそう言って、立ち上がる。
ソファーまで歩き、置かれていたうさぎのぬいぐるみを手を取って戻り、そっとキッカに差し出した。
「はい。これ、キッカさんにあげるわ」
キッカはそれを受け取ると、前に渡したときと同じように、じっと見つめた。
よほど気に入ったのだろう。
(本当に可愛いわ)
レイナは思わず、ふふっと笑った。
* * *
「ハミルトン様は、すごく、とんでもなく、性格の悪い上司なんです!」
――キッカは、そう言おうとした。
ハミルトン様がいかに冷酷な上司か、レイナ様に伝えたかった。
けれど、ふとミラの言葉が脳裏をよぎる。
『余計なこと、絶対言わないでよ。私まで巻き込まないで』
『恥ずかしくない振る舞いを、なんて、嫌味ったらしく言ってたんだから』
要するに、余計なことはしゃべらず、黙っていろという、あの怖い上司からの忠告だ。
おずおずと視線を向けた先で、ハミルトン様がゆっくりとこちらを見返していた。
冷ややかなその視線と目が合った瞬間、キッカの体はびくりと震えた。
(言ってはいけない)
体の奥底で、本能がそう警鐘を鳴らしている。
喉の奥がひゅっと詰まり、言葉は形になる前に消えた。
(私を世界の歪みに落としたのは、ハミルトン様です!)
(『レイナに会っても、余計なことを言うな』って、誓約の魔法をかけたのも、あの方です!)
(帰るときだって、私を魔力の紐で縛り上げたんです!)
訴えたい言葉は、喉の奥で悲鳴となって渦巻いている。
ハミルトン様の酷い仕打ちを、すべてレイナ様に告げたかった。
優しいレイナなら、きっとハミルトン様を怒ってくれる。助けてくれるはずだ。
そう分かっているのに、横から突き刺さる鋭い視線が、キッカの唇を縫い付けてしまう。
結局、何も言えないまま、唇をわずかに震わせることしかできなかった。
(あの人を怒ってください!)
言い出せなかった言葉は、涙に代わってぽろりとこぼれ落ちる。
そんなキッカを見て、レイナが立ち上がり、またあの置き物を手に取った。それは、この世界から連れ戻される際に、キッカが思わず掴んで持ち帰ってしまったものだ。
「はい。これ、キッカさんにあげるわ」
そう言って、またしても手渡されてしまった。
水色の毛並みに、頭から伸びた2本の触手。
可愛い形に見せてるが、紛れもなく、あの魔獣だろう。
(ラビガイ……よね?なんでこんなの、部屋に飾ってるんだろう。魔除け……なのかな)
じっとラビガイを見つめるキッカの横で、レイナ様がふふっと嬉しそうに笑っていた。
レイナ様は、とても聖女様らしい人だ。
同じ聖女でも、神殿にいるような奴らとは違う。
あいつらは、『皆に平等な愛を』なんて口では言うくせに、魔法使いを見下しているのは、その態度を見ればすぐに分かる。
王族だろうが神官だろうが、普通の人間たちだろうが――あいつらはみんな同じだ。
けれど、レイナ様は違うと聞いている。
幼いころから、魔法使いを差別しなかった。
それどころか、敬意まで払ってくれているのだという。
――あくまで、噂で聞いただけの話だけれど。
〈予言の聖女〉
誰もがその名を知りながら、誰もその姿を知らない存在。
その予言は幾度も国を救い、英雄として崇められながら、危険を理由に国と神殿から徹底的に秘匿されている。
世間に知られているのは、ほんのわずかな断片だけだった。
〈黒髪で、黒い瞳の聖女〉
それが、知られている全てだった。
ハミルトン様は元々、王子の補佐官を務めていた。
当時からレイナ様に近しい立場にあり、あれだけ頻繁に魔塔へ顔を出しておきながら、そのレイナ様については何一つ語ろうとしなかった。
『〈予言の聖女〉様狂いのくせに。ほんと、ケチな男』
――そう、魔塔でも皆が陰で噂していたものだ。
レイナ様は、魔法使いたちの間で唯一の聖女として絶大な人気を誇っている。
けれどキッカは、ミラたちのような熱狂的な信奉者ではなかった。
最新の予言を聞けば確かにすごいとは思うし、敬意も抱いている。けれど、姿も知らない相手に心酔できるほど、単純ではないつもりだった。
だが――
そんな冷めた態度を見せていたことこそが、運の尽きだったのかもしれない。
異世界への道をつなぐ魔法が完成したとき、ハミルトン様に選ばれたのはキッカだった。
『私が行きます!』
そう、ミラが真っ先に名乗りを上げたのに。
『ミラ、お前はだめです。レイナを見つけても、私に合図を送らないような者は、役に立ちません』
ハミルトン様はそう言って、冷ややかな目をミラに向けていた。
確かにミラの性格を考えれば、レイナ様を見つけた途端、「もう元の世界に戻れないんです。一生、レイナ様の側にお仕えさせてください」などと平然と嘘をつきかねない。
ミラの裏切りなど、誰の目にも明らかだった。
……だからといって、選ばれたかったわけじゃない。
『魔法のない向こうの世界に入るには、私の魔力では反発があるようですね……』
ハミルトン様自らが異世界へ向かい、そして戻ってきたとき。
目の当たりにしたのは、目を疑うような光景だった。
服は血に濡れていた。
濡れているなどという生易しいものではない。傷はすでに塞がっていたようだが、滴る鮮血は、まだ乾いていなかった。
あの光景を、この目で見てしまった。
それを見て、恐怖を感じないはずがなかった。
『キッカくらいの魔力なら、なんとかなるでしょう。――ならなくても、後で治療すればいいだけです。さあ、行きなさい』
『行きたく、ありません……!』
そう言い切るより早く、背中を押された。
抵抗する暇もなかった。
気づいたときには、もう――歪みの中に放り込まれていた。
濁流に飲まれるような感覚に襲われ、気づけば地面に立っていた。
怪我ひとつなくたどり着いた先は、川沿いの小さな公園だった。
周りには家らしき建物が並び、まばらながらも人の往来がある。
だが、通りを歩く者は皆、レイナ様と同じ黒髪黒目だった。
『レイナ様を知りませんか?』
そう声をかけようとして――やめた。
キッカの髪に気づいた人々が、すぐに視線を逸らすからだ。
皆がそのまま、距離を取るように足早に離れていった。
(何よ……この世界も魔法使いを嫌ってるわけ?)
冷たい視線には慣れていた。
それでも、何も思わないわけじゃない。
フードを深く被り、目立つ髪を隠す。
そのまま公園のベンチに腰を下ろしたが、途方に暮れて動けなくなった。どこを探せばいいのか、何の手がかりもない。
顔すら知らないレイナ様を、どうやって探せというのか。
『レイナを見つけたら、合図を送りなさい。すぐに迎えに行きます』
ハミルトン様は、そう言っていた。
けれど、その後に添えられた忠告の方が、重く響いている。
『私の魔力では、あの世界に無理に入っても、ほんの短い時間しかいられません。――ですから、合図を送るのは、必ず、レイナを見つけてからですよ』
――見つけるまで、帰ってくるな。
そう言われたも同然だった。
一晩、あの公園で夜を明かした。
夜が、やけに長く感じた。
人の気配はなくなり、世界にひとり取り残されたようだった。
魔法で、食事や飲み物はいくらでも出せる。
魔獣の気配もないこの世界で、キッカの命を脅かすものなどない。
それでも、どうしたらいいのか分からない。
不安だけが、募っていく。
レイナ様を見つけなければ、このまま一生、ここに取り残される。
ハミルトン様が迎えに来るはずなんてない。
同僚たちも、きっと助けになど来ないだろう。
――誰も、来ない。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
ぽろりと、一粒の涙が頬を伝った。




