23.この世界の麗奈
喉の奥でひゅっと息を吸い込み、弾かれるように跳ね起きた。
静まり返った部屋には、自分の荒い呼吸と、耳障りなほどの心音だけが響いていた。
目を開けた先には、薄暗い闇が広がっている。
――ここは、麗奈の部屋だ。
現実世界の、自分のベッドの上だった。
あの世界で危険に直面した麗奈は、またこの世界へ引き戻されてしまったらしい。
どくん、どくん、と心臓が跳ねる。
(大丈夫。落ち着いて。大丈夫よ)
そう、自分に言い聞かせる。
前回――ルース王子との婚約式の日に、18歳で現実に引き戻されたときも、同じ状況だった。
あのときも、戻りたいと強く願えば、すぐに戻ることができた。
焦りと不安で、なかなか眠ることはできなかったが――
それでも、眠って目を覚ますと、あの世界だった。
(だから、大丈夫)
麗奈は、いつでもあの世界に戻ることができる。
そのとき。
コン、ココン、と部屋がノックされた。
この軽いノック音は――
「お姉ちゃん?ご飯だよ。お母さんが早く来なさいって」
カチャッとドアが開き、妹の美希が顔を覗かせた。
「わ、暗っ!電気も付けてないじゃない。お姉ちゃん、寝てたの?ご飯だよ」
「美希……。あ、うん。ちょっとうたた寝してたみたい。ご飯ね、すぐ行く」
妹の顔を見て、小さく息を吐く。
半年ぶりのはずなのに、感覚は、まるで今朝会ったばかりのようだった。
――『お姉ちゃん、今日で試験終わるんでしょ?頑張ってね。お母さんも、今日はあの店のシュークリーム買ってきてくれるって言ってたよ』
『え、本当?楽しみ』
そんな、今朝話したばかりの何気ない会話さえ、はっきりと思い出せる。
この感覚も、いつもこの世界に戻ってきたときと変わらない。
麗奈は、本当に、この世界に戻ってきたのだ。
(でも……今度あの世界に行ったら――もう戻ってこないかも……)
今夜眠って向こうの世界に行けば、もう麗奈は、この世界に戻ることを選ばないかもしれない。
これで家族と会うのは、最後になるかもしれない。
けれど、きっとこれからも、この現実世界の日常は、不思議な時間の流れの中で、何事もなかったかのように続いていくのだろう。
これまでも、突然いなくなる麗奈に、誰も気づかなかったように。
「お姉ちゃん?どうしたの?テスト疲れ?」
「そうかも。やっと終わったって感じ」
つい数時間前までテストを受けていたことも、今の出来事として残っている。
麗奈は、試験勉強の疲れで、帰った途端に倒れ込むように眠ってしまっていたのだ。
「あ、お母さん呼んでる。怒られないうちに行こう」
階段の下から、「ご飯よ」と母の声が聞こえた。
「行こうか」
麗奈はそう言って、美希を促した。
すぐに戻れると思っていた。
けれど、あれから一週間が経った今も、麗奈はまだこの現実世界にいる。
――戻ったあの日の夜。
(お願いします、神様。あの世界に戻してください。ミラに――ハミルトンに会いたいんです!)
そう強く祈って眠れば、すぐに戻れるはずだった。
それなのに。
夜中に何度目を覚ましても、世界は変わらなかった。
目を開けるたびに、現実世界の自室の、小さなベッドの上だった。
翌日のバイトは散々だった。
まったく集中できず、ミスを繰り返した。
(昨夜は、熟睡できなかったからよ。今日はさすがに疲れたもの。今夜こそ、大丈夫。だから安心して眠ろう)
また夜を迎えて、そう言い聞かせながら眠った。
――それでも。
世界は。変わらなかった。
カーテンの隙間から明るい日差しが差し込むそこは、麗奈の部屋だった。
とても混乱した。
わけが分からなかった。
(祈りをサボっていたから?)
聖女でありながら、神殿にも行かず、祈りもせず、ただ好きに過ごしていた。
――聖女失格と見なされたのかもしれない。
(私の予知夢は、もう必要ないってこと?)
突然の魔獣出没も、危険は事前に食い止められた。
――もう、予知夢は必要ないのかもしれない。
麗奈の、聖女としての役割は、終わったのかもしれない。
胸の奥が、すうっと冷えていく。
(……それでも)
それでも、毎晩強く願った。
ハミルトンに会いたかった。
どうしても、気持ちを伝えたかった。
自分の気持ちに気づいていたのに、どうして何も言わなかったのだろう。
どうして、あんなふうに、当たり前のように明日が来ると思ってしまったのだろう。
何も言えないまま別れるなんて、納得できるはずがない。
(お願いします!――もう一度だけ。最後に、もう一度だけ、あの世界に連れて行ってください!)
誰に向かって祈っているのかも分からなかったが、祈らずにはいられなかった。
けれど。
あの世界では予言の聖女でも、この世界の麗奈はただの普通女子だ。
どれだけ祈っても――その願いが叶うことはなかった。
今夜も、ベッドの上で思う。
(明日また目が覚めたも、この世界かも……)
麗奈のいなくなったあの世界で、どれだけの時間が経っているのだろう。
たった一晩が、あの世界では半年だったこともある。
前回は、この世界の5年間が、あの世界では2ヶ月だった。
世界の間の時間軸は、分からない。
(まだ、私がいなくなったことにさえ、気づいてないかも。……それとも、もう何ヶ月も経ってるかも……)
あの世界のことが、なにも分からない。
分かる手段さえ、ない。
何も分からないまま、麗奈はこの世界でまた年を重ねていくのだろうか。
もし、またあの世界に行けるときがあっても――
そのときの麗奈は、いくつになっているのだろう。
ハミルトンより、年上になっているかもしれない。
今は同世代にしか見えない彼だが、年を重ねたそのとき、麗奈は――そしてハミルトンは、お互いに何を思うのだろう。
(……大丈夫。大丈夫よ。まだ一週間)
(そのうち、きっとまた戻るわ。今までだって、そうだったもの)
(戻らないはずがないじゃない)
そう言い聞かせて、眠につく。
――けれど。
目を覚ましても、世界は変わらなかった。
今朝もまた、この世界だ。
何も変わらないままに。




