20.変わらない関係
「いや。僕はもう、紅茶に砂糖は入れないんだ」
「そう……なんですね」
差し出した小皿を、ルース王子にそっと手で制され、レイナは動きを止めた。
彼はもう、甘い紅茶を好むような年頃ではないのだろう。
白く、固く、きれいな角を持った、完璧な角砂糖だった。
ハミルトンに特別に魔力を込めてもらって作ったそれは、結局、また誰にも口にされることはなかった。
ルース王子と二人で、消えていく角砂糖を見つめる。
「せっかくのレイナの魔法だけど――」
「いいえ」
言い終わるより先に、レイナは言葉を重ねた。
「ルース様、気にしないでください。魔法が使えるところを見てもらいたかっただけなんです。私こそ、ごめんなさい。もっと他にもお見せできればよかったのですが……今日は、これくらいで」
謝ってほしいわけではなかった。
ただ――少しだけ、残念だっただけだ。
それでも、魔法を使ったところを見てもらえただけで、十分だった。
本当は他にも魔法を見てもらいたいが、レイナの魔法はチャージ式だ。
ハミルトンに魔力を補充してもらわなければ、あっという間に尽きてしまう。
先ほどの角砂糖に、すでにほとんどの魔力を使い切っていた。
「いや、そうじゃなくて――話をしたいんだ。その……これは、国からの希望でもあるんだけど……」
ルース王子が言い淀む。
どこか言いにくそうな様子に、レイナは首を傾けた。
(あ、そういうことね)
少し考えて、ルース王子の言いたかったことに気づく。確かに言いにくいことだろう。
「今回の予言の報奨金は、お気持ちだけで十分ですよ。それでも少しでも出るのなら、頑張ってくれた、魔法使いたちに配ってください」
この世界に来てからだけでも、原因不明の暴風被害があり、今回の魔獣調査もあった。
国の支出も、相当なものになっているはずだ。
報奨金の減額を望まれても、不思議ではない。
「あ、いや。報奨金はいつも通り出るよ。国としては、レイナ個人に使ってほしいと思ってるけど――いや。そんな話じゃなくて……」
また言い淀んだルース王子を、レイナは静かに見つめた。
急かすことなく、言葉が整うのを待つ。
――こうしていると、思い出す。
『お姉ちゃん、答えだけ教えてよ』
眉を寄せて、宿題に悩んでいた妹の顔と、どこか重なった。
元の世界では今、どんなふうに時間が流れているのだろう。
(私が帰るときは、いつも時間が巻き戻ってるけど……)
向こうでは、時間が止まっているのだろうか。
それとも、レイナがいないまま、変わらず流れているのか。
そうであればいいと思う。
ここで平和に暮らしている自分のことなど、なかったかのように――両親も、妹も、穏やかに過ごしていてほしい。
それでも。
そうであってほしいと願うのに、胸の奥には引っかかるものが残る。
これも、この世界に来るたびに繰り返してきた思いだ。
「……レイナ?聞いてる?」
「あ……ごめんなさい」
意識が引き戻される。
はっとして顔を上げると、ルース王子がレイナを見つめていた。
「少し、考えごとをしていました。
取り繕うように微笑む。
「いや、その――僕たちの、婚約のことなんだ」
ルース王子が、意を決したように言葉を続けた。
その表情は、どこか思い詰めている。
(……婚約のこと?)
一瞬、考えて――すぐに思い当たる。
(ああ、カトリーナ様とのことね)
どうやら彼は、そのことで悩んでいるらしい。
それなのに、ぼんやりしてしまっていた。
(いけない。しっかりしなくちゃ)
レイナは気を引き締める。
「私は、カトリーナ様の予知夢を公言するつもりはありません。二度の襲撃のことも、毒薬のことも、大神官様に話すつもりもありませんから」
安心してもらえるよう、ゆっくりと言葉を重ねる。
「ですから……安心してくださいね、私は、ルース様には幸せになってほしいと思っています」
そう言って、やわらかく微笑んだ。
「は?予知夢……?レイナ、カトリーナの予知夢を見たのか?!いつ、どんな……あ、いや、それより――違うんだ、そうじゃない。カトリーナとの婚約じゃなくて、僕とレイナの婚約の話だ!」
身を乗り出したルース王子の勢いに、思わずレイナはわずかに身を引いた。
「私と、ルース様?……ああ、もしかして」
すぐに思い当たる。
「〈予言の聖女〉の噂のせいですか?その流れに乗ろうなんて言い出す人が、やっぱり出てきたんですね」
少しだけ眉を下げる。
「でも、そんな「王家の箔付け」みたいな話に、ルース様が付き合う必要なんてありませんよ。私は、ルース様には、幸せになってほしいと思っていますから」
「え、噂に乗る……?いや、箔がつくとか、そういう話じゃない。そうじゃなくて――」
ルース王子が言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「ルース様、落ち着いてください。こういうときは、やっぱり甘いものです。……あ、もちろん」
ふと思い出して、言葉を足す。
「もう甘い紅茶は飲まない大人だということは分かっています。でも、甘いものは気持ちを落ち着かせてくれますから」
彼の自尊心を傷つけないように、そっと言い添える。
そして、手を前にかざした。
(もう一回。もう一回、角砂糖よ、出でよ!)
祈るように、手へと意識を集中させる。
――しかし。
現れたのは、濃い紫色の砂糖だった。
さらさらと崩れ、テーブルの上に頼りなく散っていく。
「あ……また、色付きですね」
やっぱり、白い角砂糖を作れるほどの魔力は残っていなかった。
「ハミルトンにお願いしないと、今日はもう無理ね……。ごめんなさい」
「――呼びましたか?」
その名を口にした瞬間だった。
すぐ傍に、すっと気配が現れる。
「あ……」
いつの間にか立っていたハミルトンに、レイナは思わず肩を跳ねさせた。
慌てて、テーブルの砂糖をかき集める。
「あの、違うのよ、ハミルトン。魔法を見せびらかしてたわけじゃないの。その、ルース様の紅茶を、少し甘くしたかっただけなの。今すぐ必要で……!」
通常、魔力の受け渡しはしないものだと、ハミルトンは話していた。
厳罰対象なんだろう。
(まずいわ……!)
急いで砂糖を皿に集め、ミラを呼ぶ。
「ミラ、すぐにこれを片付けて」
呼べばすぐに現れると言っていた通り、ミラは音もなく姿を現した。
皿を受け取ると、一礼してすぐに消える。
一瞬で、証拠は消えた。
これで大丈夫――のはずだ。
「レイナ」
静かな声だった。
それなのに、レイナの肩がびくりと揺れる。
恐る恐る顔を上げると、ハミルトンは、いつもと変わらぬ優しい微笑みを浮かべていた。
「もう少し、魔力を乗せましょうか?レイナ、――手を」
「え……あ、はい」
促されるままに手を差し出す。
次の瞬間、その手をきゅっと握られた。
逃げる間もなく、指先まで絡め取られる。
(恋人つなぎ……!!)
胸の奥が、どくんと跳ねた。
魔力を乗せてもらうだけなのに、どうしても、この距離には慣れることができない。
「ルース王子に魔法を見せても大丈夫ですよ。――もちろん、分かってくださっているはずですから」
レイナに向けるようで、その実、ルース王子へと向けられた声だった。
穏やかな口調のまま、逃げ場のない圧が滲む。
ふと、昔のやり取りを思い出す。
『ルース王子。王子は、いずれこの国を担うお方です。あまり神殿に遊びに来てはなりませんよ。――もちろん、分かってくださっているとは思いますが』
かつて何度も聞いた、あの言い方だった。
今も少しも変わっていないのだと、妙に可笑しくなる。
視線を向ければ、ルース王子は憮然とした顔をしていた。
何も言い返さないところまで、昔のままだ。
思わず、ふふっと笑ってしまう。
「あ、ごめんなさい。ルース様、すぐにお砂糖を出しますね」
「いや、いいよ。僕はもう、紅茶に砂糖は入れないんだ」
さっき、笑ってしまったからだろうか。
子ども扱いをされたと思われたのかもしれない。
改めて、きっぱりと拒まれてしまった。
「そうですか。レイナの魔法を見てもらえなくて、残念です。――それで。本日は、どのようなお話でしょうか。私もお力になりますよ」
穏やかな声音だが、やはりどこか圧を感じる。
この言い方も、昔と少しも変わっていない。
「いや――もう、いい。今日は帰るよ」
短くそう言って、ルース王子が立ち上がる。
引き留める間もなかった。
やっぱり、先ほど言いかけていたのは、カトリーナとの恋愛相談だったのかもしれない。
(それは……ハミルトンには言いにくい話よね)
相談に乗ってあげられなかったのは申し訳ないが、ここはレイナも黙っておくべきだろう。
「では、玄関までお送りしましょう。――レイナ」
「あ、はい」
ハミルトンも立ち上がると、レイナへ手を差し出した。
レイナは、いつものようにその手を取る。
「ルース王子。王子は、いずれこの国を担うお方です。あまりここに遊びに来てはなりませんよ」
レイナと手を繋いだまま、長い廊下を歩きながら、ハミルトンが静かにルース王子を諭す。
かつてと変わらぬ穏やかで――その実、逃げ場のない声色だった。
ルース王子は、わずかに視線を逸らす。
相変わらずハミルトンは、ルース王子を前にすると、補佐官の顔になるらしい。




