15.予知夢
ふと視線を上げると、すぐ目の前に広い背中があった。
見慣れた後ろ姿だ。
「ハミルトン、お帰りなさい」
――そう声をかけようとして、違和感に気づく。
どこか、違う。
(髪が長い……? これ、夢……?)
肩につくくらいだった濃い紫色の髪が、今は後ろでひとつに束ねられている。
見覚えはあるのに、はっきりとは分からない。
少し前かがみになったその背中を、レイナはじっと見つめた。
(……誰かを、抱きしめてる?)
違和感の正体に気づく。
腕の中に、誰かを閉じ込めるように抱き寄せているのだ。
すぐ背後に立っているはずなのに、その顔も、抱きしめられている相手の姿も、なぜか見えない。
前に回って二人の顔を確かめたいのに、体が動かない。
この世界の夢では、いつもそうだ。
ただ、目の前の出来事を見ていることしかできない。
「愛しています。……出会ったときから、ずっと」
噛み締めるようなその声は、聞き慣れたものだった。
(……やっぱり、ハミルトン?)
「誰に?」
思わずそう問いかけたくなる。
(誰?誰に告白してるの?……もしかして、未来の私?)
ドキン、と心臓が跳ねた。
――いや。
「出会ったときから」と言っていた。
レイナがハミルトンに出会ったのは、5歳のころだ。
ルース王子の護衛を兼ねた側近候補として現れた彼は、「大人ではないけれど、大人みたいに大きくて怖そうなお兄さん」――そんな印象だった。
ハミルトンは、ルース王子より7歳年上だ。
同い年のレイナから見ても、あの頃の彼は、12歳のはずで。
(そんな年の男の子が、5歳の女の子に一目惚れなんて……する?)
その腕の中のにいる相手は、レイナではないのかもしれない。
胸の奥が、じわりと重く沈む。
「その子は誰ですか?ちょっとどいてくださいよ。見えないじゃないですか」
かけたつもりの声が、届かない。
この夢では、何ひとつ干渉できないのだと分かっているのに――もどかしい。
「ねえ!その子は誰?私なの?」
必死に呼びかける。
けれど、固く誰かを抱きしめるその背中は、ぴくりとも動かない。
そんなふうに抱きしめる相手は――誰?
自分ではない、誰か、なのか。
「ちょっと! この、ロリコン野郎!」
「……様。レイナ様。こんなところで眠っては、風邪を引きますよ」
はっと息を吸い込んだ。
胸が大きく跳ねて、うまく呼吸ができない。
目を開けると、すぐ目の前にミラの顔があった。
「……っ」
弾かれたように、上体を起こす。
吹き抜ける風が頬を撫で、木々を揺らした。
さらさらと葉の触れ合う音が、耳に届く。
――庭園だ。
ベンチに座っている感触が、遅れて意識に戻ってくる。
散歩の途中で、少し休んだだけのはずだったのに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
柔らかな陽の光。
穏やかな庭園の景色。
さっきまでの光景が、嘘のようだった。
「ミラ……? あれは、夢……?」
「――予知夢ですか?」
小さく息をのんだミラが、固い声で尋ねる。
夢――だった、はずなのに。
胸の奥に残る感覚が、どうにも引っかかる。
思わず、深いため息がこぼれた。
「レイナ様? 大丈夫ですか? すぐにハミルトン様をお呼びしますね」
「ハミルトン……? あ、待って――」
伸ばした手は、空を切る。
ミラの姿は、すでに消えていた。
――どうしよう。
頭を抱えたくなる。
「どんな夢を見たんですか?」なんて聞かれたら、いったい何と答えればいいのか。
「ハミルトンが、誰かを抱きしめながら告白する夢でした」
――なんて、言えるわけがない。
「相手の顔は見えなかったんですけど、あれ、私ですか?」
「ハミルトンって、幼い女の子が好みなんですか?」
――そんなこと、聞けるはずがない。
それに、あれが自分とも限らないのだ。
「実は昔、一目惚れした相手がいるんです」
――なんて言われたら。
……無理。
それを聞く勇気は、さすがにない。
――辛い。
(辛い……?)
ふと、気づく。
今、自分は――夢の中で見た「誰か」が、自分であってほしいと願っている。
ロリコンはどうかと思うけれど。
それでも。
ハミルトンが他の誰かを想っていると考えるだけで、
胸が、きゅっと痛んだ。
(え、ちょっと待って)
きっと、もうすぐハミルトンがここへ飛んでくる。
心の準備もできていないのに、予知夢の内容を話さなければいけない。
(無理! なんて話せばいいのよ!『ハミルトンの告白現場を見たんですけど、あれ、誰ですか?』なんて言えるわけないでしょう?
それに『実は好きな人がいて……』なんて言われたら、どう返せばいいのよ!
『この裏切り者!』とか言えっていうの?!)
落ち着かなきゃ、と思うのに。
思考が空回りして、まとまらない。
このままじゃ、絶対に余計なことを言う。
――時間が、足りない。
その瞬間。
焦るレイナの視界に、すっと影が差した。
――近い。
背の高い何かが、すぐ目の前にある。
「ハ……」
顔を上げ、名前を呼ぼうとして――息が止まる。
「――っ」
目前に、鋭い牙があった。
(魔獣――!?)
ぎらりと光る赤い目が、レイナを捉える。
大きく開いた口の奥。
ぬめる舌が揺れ、糸を引く涎が滴る。
生臭さが、喉の奥にまとわりつく気がした。
時間が、ゆっくりと歪む。
――まただ。
何度も経験してきた、この感覚。
世界が、剥がれるように遠のいていく。
(……ああ)
理解した瞬間、力が抜けた。
――また、戻されるのだ。
「……様。レイナ様」
はっと大きく息を吸い込んだ。
肺に空気がうまく入らない。
胸だけが大きく跳ねて、呼吸が追いつかない。
目を開けると――すぐそこに、ミラの顔があった。
「ミラ……?」
弾かれたように、上体を起こす。
柔らかな寝具の感触が、遅れて意識に戻る。
薄く開いたカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
――自室だ。
「夢……?」
自分の声が、どこか遠く聞こえる。
「――予知夢ですか?」
「予知夢……?」
あれが?
あの魔獣が?
ハミルトンの、あの夢が?
こんなに長い夢を見たのは、初めてだった。
ここは安全なはずなのに。
この屋敷に、魔獣なんて現れるのか。
それとも。
また、元の世界へ戻される前触れなのか。
思考がまとまらないまま、頭を押さえる。
「すぐにハミルトン様をお呼びします」
ミラはそう言い残し、すっと姿を消した。




