16.あの後ろ姿
「レイナ」
優しく呼ばれる声に、意識が引き戻された。
ハミルトンが、心配そうにわずかに眉を寄せて、こちらを覗き込んでいた。
ふと視線を落とすと、手元の紅茶が静かに揺れている。
「……あ。ごめんなさい」
(今、なんの話をしていたんだっけ……)
少し遅れて、思考が追いついてくる。
「王家から受けた、出張のお話でしたね。ハミルトンが強いことは知っていますが……気をつけてくださいね」
先日、王家からの呼び出しを受けて、ハミルトンは任務を与えられていた。
各地の魔獣の巣窟を巡り、異変がないかを調べる――危険を伴う調査だ。
彼だからこそ任された仕事だった。
「出張は代理の者が行くことになった、と伝えようとしただけですよ」
「代理……ですか」
(そんなこと、できるの……?)
穏やかに微笑んで頷くその様子に、レイナはわずかに首を傾げた。
「私の部下たちは、自ら進んで危険な任務に飛び込んでいくような者たちばかりですから。今回は部下に調査を任せるつもりです」
「自ら進んで……ですか」
「私は屋敷で指揮を取ることにします」
確かに、ハミルトンほどの魔法使いの部下ならば、優秀な者たちばかりだろう。
けれど魔塔ではなく、屋敷で指揮を取る必要はないはずだ。
(心配してくれているのかしら……?)
じっと彼を見つめていると、ふいに、あの後ろ姿がよぎった。
夢の中で見た、濃い紫色の髪。
今、目の前にあるそれと同じ色のはずだ。
それでも、どこか違っていた気がする。
光が曖昧で、周りの風景も輪郭もぼやけていて。
少し、色が薄かったような――そんな気もする。
そして。
あのときの髪は、もっと長かった。
束ねられたそれが、背中でさらりと揺れていた。
結局、レイナはすべての夢を話せてはいない。
もちろん、この屋敷と、国の有事に関わる魔獣の出現については、すぐに伝えた。
だが、ハミルトンの夢は話せなかった。
夢の中で見た夢の話だったし、仮に予知夢だったとしても――あまりにも個人的すぎる。
誰かに危険が及ぶようなものではない。
ただ、自分が戸惑っているだけだ。
(……うん、これは報告しなくてもいいわよね)
予言の聖女として、すべての予知夢には報告義務がある。
けれど国だって、『予言の聖女を害する者は、いかなる者も厳罰に処す』という法を破っているのだ。
それなら、これくらいは見逃してもいいはずだ。
とはいえ、もし、ハミルトンにだけでも話せば。
その意味は、きっとすぐに分かるのだろう。
『実は幼い子が好みで……12歳のとき、5歳のレイナに一目惚れしたんですよ』
そんなふうに言われたら。
(……それはそれで、どうなのよ)
呆れるべきなのか、引くべきなのか、きっと迷う。
それでも――少しだけ、嬉しいと思ってしまう気がする。
(でも……)
心が、揺れる。
5歳の子に一目惚れ、なんてことあり得るのだろうか。
そもそも、自分に一目惚れという時点で無理がある。
「レイナ……?少し休みますか?よく眠れるハーブティーを淹れましょうか?」
また思考に沈み込んでいたらしい。
ハミルトンが、様子を探るようにレイナを見つめていた。
レイナも、その顔をじっと見つめ返す。
相変わらず、目を逸らしたくなるほど整った顔立ちだ。
すっと通った鼻筋に、切れ長の琥珀色の瞳。
感情を滅多に表に出さないその瞳は、どこか冷たくも見えるのに――目を離せなくなる。
薄い唇がわずかに動くだけで、なぜか視線を引き寄せられる。
中性的で、涼やかで、それでいて有無を言わせない存在感がある。
(鏡の中の自分に一目惚れした、って言う方が自然なんじゃない?)
ふと、またあの束ねた髪が思考をよぎる。
今からどれくらいの時間が経てば、あの長さになるのだろう。
(あのとき、ハミルトンは誰といたの?)
そう、尋ねてみたい。
「ハミルトンは……」
知らず、言葉がこぼれていた。
「長い髪も似合いそうですね」
「髪……ですか?」
不思議そうに問い返されて、はっとする。
慌てて笑みを浮かべるが、うまく誤魔化せている気がしない。
(何を言ってるの、私……)
紅茶口に含むと、花の香りがふわりと広がった。
「最近、人が増えたわね」
窓の外に立つ者たちを見ながら、レイナはミラに声をかけた。
最近、レイナの移動する先々で、魔法使いらしき人たちが所々に立っている。
それは、以前は見られなかった光景だ。
「防御魔法は強化されてますし、危険はないはずですが……万一ということもありますし」
魔獣の夢を見たときに、あまりにも取り乱しすぎたせいだろう。
さらに時おり物思いに沈むレイナの様子を見て、過剰なほどの警戒体制が取られるようになった。
屋敷の外でも、王家が守りを固めているらしい。
「予知夢は変わるものだから、防御魔法を強化しただけで、もう未来は変わっているかもしれないわよ?
それに、私一人を守るより、王都全体を強化した方が、もっと多くの人を守れるんじゃないかしら?」
「いえ。屋敷の安全を守れない時点で、私たちの安全はありませんから」
「あ……そうなのね」
ハミルトンは怒ると怖い。
きっと、魔法使いたちにとって、彼は魔獣よりも恐れる存在なのだろう。
レイナは大人しく頷いておく。
「あら……?」
ふと、目が止まった。
背の高い男が、そこに立っている。
長い髪を後ろで束ねた、魔法使いらしい紫の髪の男だ。
ハミルトンほどではないが、それでも目を引く濃さだった。
(彼……?)
思わず、息をひそめる。
夢の中で見た後ろ姿が、脳裏によぎる。
(……違う? でも……)
確かめるように、レイナはその後ろ姿から目を離せなかった。
「レイナ様? あの男がどうかしましたか?」
「あ、ううん。なんでもないの。ただ……少し気になっただけ」
そう言って微笑む。
けれど、その視線は、まだ窓の外に引き寄せられたままだった。
「なんて名前の人?」
「あいつは……ダニエルという者です。私にも及ばない、ただの魔法使いですよ」
「ふうん……?」
窓の外に見える男は、「ミラほどの能力はない、ただの魔法使い」らしい。
(あの人……ダニエルには、一目惚れした想い人はいるのかしら?)
レイナの予知夢は、まったく知らない者の未来を映すこともある。
夢で見たのは――あの人だったのかもしれない。
(……少し、気にしておこう)
そう思って見ていたのに。
翌日、彼の姿は見えなくなっていた。
「あら……?」
代わりに、見覚えのない短髪の魔法使いが同じ場所に立っている。
(配置、変わったのかしら……?)
首を傾げる。
夢の中の彼に似た男は、あまりにもあっさりと消えすぎていた。




