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黒のスウェット

 俺は机に座ってボーっとあたりを見廻している。

そこには昨日と全く変わらない、教室の風景が広がっていた。そんなの見ていると、昨日、家に帰ってからの数時間が嘘のように思えてくる。


 いつも通りに授業を受け、いつもの様に周りの友人達と無駄話をし、昼飯を食べ、授業が終わり、家に帰る。

 電車に乗った頃には、昨日のことが、全部、妄想の産物で、現実ではないと思いさえしていた。






 …… じゃあ、いくぞ。


 俺はついに家に帰り着き、玄関先に立った。

昨日、このドアを開けた途端、俺の人生が妙なことになったのだ。


 ガチャ


 うむ、ドアの鍵はかかっている。昨日とは違う。このまま全部、昨日がなかったことになればよい。思わず淡い期待を抱いた俺は、勢いをつけてドアを開けた。


 


「おかえりなさい」

「……」


 俺が部屋に入るなり、耳に飛び込んできた声。やっぱり、昨日のことは夢ではなかったようだ。この人がここにいるってことが、何よりの証拠である。

 恐る恐る部屋にあがり奥の部屋を覗くと、咲菜が突っ立ってこっちを見ていた。

 初めに目に留まったのはスウェットがグレーのから黒に変わっていること。こっちの方が、ちょっとはすっきりして見える。

 黒の服だと色白な咲菜の白さがもっと際立つ。性格は有り得ないけど、ルックスはやっぱ超一流であるのが、無性に癪に障る。

  

「なにか変ですか?」

「あ、別に」


 怒っているというより、なんか目が泳いでいる。微妙に恥ずかしがっているようにすら見えた。どうも朝の変化が続いているみたいだ。チラ見しただけで、すごい剣幕で怒られ、脅された昨日の夕方とは違っている。ちょっと気が楽になった。

 そんなことを考えていると、スススと彼女がこっちにやって来た。昨日はあれほど自分に距離を置かせていた咲菜。何を考えている?!


 そ、そうか!!


 そうかと俺は身をひるがえした。ついに実力行使に出てきた。青くなって身構えていると、俺の目の前までやって来た彼女は口を尖らせた。

 

「そんな、…… 本当に噛み付いたりしません」

「あ、そう……ですか??」


 …… 昨日なんか、ちょっとでも近づものなら、問答無用で噛み付くって言ってたじゃないか。ほんとうに勝手なやつだ。内心舌打ちする。


 彼女は俺をしり目に、直ぐ側を通り抜けてキッチンの前にたった。


「そんなことより、夕食は何がいいです?」

「はあ??」


 今なんて言った? 

こいつ、食事を作るって?

一体、どうなってしまったんだろう。


 朝ご飯は勝ってきてやったおにぎりのお返しだという事で、そうなのかと思ったが、今回はそれとは違うみたいだ。

 警戒を解かない俺に肩をすくめた咲菜は、冷蔵庫を開けあれこれと引っ張り出した。

 咲菜はそれから、本当に夕食の調理を始めた。ご飯を炊き、母さんが買ってきていた食材を使って、何やらつしている。見ているとなかなかの手さばきで作っていった。

 蝶山さんは何も出来ない娘だといったけれど、すくなくとも料理に関しては、何も出来ないということでは無さそうだった。

 しかしだ、昨日の彼女は一体何だったのか。ますますわからなくなってしまう。なぜある意味、嫁らしいことをする気になったのだろうか。

 そこら辺が分からなければ、昨日、受けたトラウマは到底、解消することはない。

 この暑いのに、黒のだっぷりとしたスウェット姿で料理している咲菜の後姿をながめながら、俺はどこまでも首を傾げるしかなかった。

 


 極めて手際の良い包丁さばきで、あっという間に夕食の準備が整っていく。直にぐつぐついう鍋や、ジュージュー音を立てるフライパンから、何とも言えないいい香りが立ち上り始めた。 

 俺は鼻をくすぐる素晴らしい香りに半分頭がもうろうとなりながら、ふと気づいた。それにしても、さっき鼻をくすぐった甘い香りはなんだろう。

 

 …… 咲菜からから香っていたと思ったんだが。


でも俄かには、それが彼女の漂わせていたものだとは、信じることが出来ない俺。昨日、あいつからの臭気で、死にそうになったのだから。


  

 「なんですか?」


久しぶりにかけられた不機嫌そうな声。


 彼女は口を尖らせて、テーブルの側に立っている。

ハッとしてみると、そのテーブルには肉料理や煮物、お吸い物、キラキラ光る白いごはんと、マッチ売りの少女の見た幻かと思うほど、俺の心を鷲掴みにする品々が並んでいた。

 

「ああ、そう言えば、草葉さんが昼間に来て、『母さんもしばらく仕事場で寝泊まりするから』と、言ってられました」

「あ、っそ。……別に俺の知ったことじゃない」

「そうです……か。それでいいんですか?」

「良いも悪いもないだろ、親がそう言ったんだったら」

「分かりました」


 目の前の料理に気が取られて、全く頭が回っていなかった俺は、何の気なしにそんな言葉を吐いたが、その一連の言葉が、それから俺をどんな目に合わせることになるかなど、予想するっていうのは無理な話であった。

   

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