朝食
…… もう起きないとヤバい。
学校に遅れる。
夢うつつにも朝が来ているのは分かっている。もう起きなければと必死に思っているのだが、体が痛くて思ったように動かない。
俺はしばらくゴニョゴニョと葛藤した後、一つ二つ唸るって、やっと目を開いた。
あれ?
目に飛び込んでくるのは、いつもと違う天井の風景。あれ?と思って起き上がって見回したら、俺は台所の床の上に寝ていた。
そっか
そこでやっと思い出した。昨日のめちゃくちゃな話を。
……やっぱり、現実。
無意識のうちにため息をつく。
俺はフローリングで丸まって寝たおかげで、体中が痛い。ウーウーしばらく言っているうちに、そうだと俺の家の二部屋のうち、もう一つの部屋である奥の居間兼寝室を覗くと、昨日と同じように、壁によっかかって座っている咲菜がいた。
咲菜の顔を見た瞬間、昨日の嫌なことがワッと蘇ってきて、思わず「ウワッ」と嫌な顔をしまった。
ヤベ、何か言われる!
ちょっと動いただけでクレームをつけてくる咲菜である。なんか言われると身構えてた俺だったが、なぜか咲菜は黙っていた。
一体どうしたんだろうと訝しがって様子を伺うと、咲菜はひょいと何かをつまみ上げ俺に見せた。
「これ、買って来たのあなた?」
「これって?」
話しかける声にそっちを向くと、俺が昨日買って来たおにぎりの「包み」だった。
「ああ、そうだけど」
彼女はやっぱりみたいな顔をした。俺は昨日、コンビニおにぎりを咲菜の側に置いたのを思い出した。
寝ているすきに近づいたのね!とドヤされて、今度こそ噛みつかれるのかと思ったら違った。
「なんだか、世の中には面白くって、美味しいものがあるのね」
「そう?」
「……ありがとう」
……え?
なんだか、良く分からないことで礼を言われた。
「それと、そこの」
「はあ?」
咲菜はすっと白い手でテーブルの上を指した。そこには湯気の立つもの、そうお椀と茶碗と皿に盛られたおかずらしいものが置いてあった。
「勝手にさせて頂きました。毒は入っていないので、良かったら召し上がってください」
「……」
どうも話の流れから言うと、朝飯作ったんで食べろと言っているようだ。
俺は良く分からん咲菜のアクションに、微妙に戸惑いながらも、テーブルの上の味噌汁と香ばしい鰹節の懐かしい香りに、クラッときてしまった。
俺は警戒心も判断力すっかり奪われ、半ば無意識のうちに立ち上がると、テーブルに近づくと、ガガッと椅子を乱暴に引きだしドガッと座った。
う、うわあ、美味そうだ。
一粒一粒がキラキラの真っ白なご飯、合わせみその豆腐の味噌汁、おかずはだし巻き卵とレタス数切れ。俺はおもむろに、一口、ご飯を含んだ。
口の中でご飯の味が広がると同時に、自分の胸の内から何かが湧いてくる。
これなんだろ、懐かしい?嬉しい? 悲しい? 寂しい? 悲喜こもごもの気持ち?
自分を押しとどめていたものが崩れ去って、もう溢れてくるものに歯止めがきかない。
もう、この地上に、自分のおり場はない。
昨日の夜、公園でおにぎり食いながら本気でそう思った。別にリッチでもカッコ良くなくっても良い、心から安心していることが出来る、「居り場」が欲しい。
そう、そうなんだ、こんな普通な朝ご飯が普通に出てくる、普通の生活がしたい……。
「くそ、うめー、 無茶苦茶 うめーぞ、これ!」
なんかボロボロ涙が出る。でもかき込む箸は止めない。来ててしまわないうちに、どこかに行ってしまわないうちに、こいつを、こいつを平らげなくては。
「……草葉君?」
その時の俺は、こんな情けない姿を誰かにじっと見られているだなんて、考えてもいなかった。
朝飯を食い終わった俺は、台所の床にペタンと座り込み、腑抜けたようにボーっとしていた。普通の生活に帰りたいとの願望と、滅茶苦茶な現実の狭間で、すっかり疲れ果ててしまっていた。
「あのう、草葉君」
俺は耳を疑った。名前、知ってたのか。俺が顔を上げるとピクンと反応したけれど、だからと言って怒るわけではなかった。目を泳がせる。
「今日、学校ですよね。準備しないと、間に合わないんじゃなのかしら」
「ま、そ、そうだ……けど」
空耳ではない。咲菜にまともに話しかけられた。しかも、俺のこと心配しているみたいな話ぶり。態度が今までと随分違うことに驚き戸惑う。
「7時に出たら間に合うから、もう少し大丈夫」
「そう? 学校はどちらなの?」
「立岡高校」
「……立岡高校?」
あれ? 会話が成り立っている。
「つうか、ちょっと荷物取らせてくれる?」
「え? ああ、これなのね」
当然、俺の学校の教科書や荷物は、俺が昨夕から過ごしている台所にはおいてはいない。咲菜が陣取っている、居室兼居間兼寝室に置いてあるのだ。
「ええ、どうぞ」
彼女は何でもないように、俺の申し出を承諾した。
……あれ? 昨日、こんなこと言ったら、罵詈雑言ぶつけられただろうに。いやいや、昨日のことを考えたら、まだだ、まだ。何考えているのかわからない。もしかしたらこういっておびき寄せて、ガブリと食いついてくるかも。
俺にはこいつが前夫の指に噛みついたやつを、そうは簡単に信じてはならない。いつ野生に変えるか分からない。一瞬緩みかけた警戒をびしっと引き締め直す。
俺はいきなり飛びかかってくることを想定し、かつ相手を刺激しないように、十分な間合いを取って、自分の机に接近していった。
そんな俺をキョトンとして見守る咲菜。
「えっとこれと、これと……」
2m程おいて彼女がいる。横目でそちらの動きを監視しつつ、俺は手早く必要なものをかき集めた。しかし、こういう時にありがちなことは、焦るあまりに手元が来ることである。
ペンケースの中を確認した際、見事に消しゴムが転がって行き、彼女の足にこつんとぶつかってしまった。
全く日焼けしていない青白い脚の側に、俺のなけなしの消しゴムが鎮座している。
俺はあまりに恐ろしいことになってしまったと、涙目で固まっていると、その消しゴムをすっと白い手が拾い上げた。
「はい」
「あ、あ、あ」
何だ?この臭い???
むせるような甘さと指すような刺激がごちゃ混ぜになったような臭いの塊が、俺の鼻を直撃した。
一瞬のうちに吐気をもよおすが、それはその、ここでそう言うことになったら、激しく不味い。
俺は必死で愛そう笑いを浮かべて、急速離脱。集めた荷物と玄関先のカバンを抱えて、急いで部屋を出た。
俺は急いで外の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、過呼吸になりそうだったけれど、何度も何度も深呼吸をした。
やっと肺の中の空気が入れ替わり人心地着く。
「……な、なんだ、あれは」
鼻に飛び込んできた臭いの源は、どう考えても咲菜である。
「いやあ、参ったな……」
俺は色々な意味でショックを受け、家を出てちょっと言ったところにある、バス停のベンチでしばらくへたり込んでいた。
有り得ない臭いだった。
昨日の鬼女みたいな態度はなくなって、ちらっと光が差し込んだような気がしていたところに、今度は有り得ない形で家に帰りたくなくなってしまった。
正直言って、トラウマになるかもしれない。不意打ち過ぎだし強烈過ぎ。
「一体、なんだってんだよぉ!!」
俺は思わず一声、叫んでしまった。
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県立立岡高校。三年になる時に編入していた。良くもなく悪くもなく特色もなく、地味で極々平均的な高校。
三年は入試に向けて自分の志望に従って授業をとる感じなので、ほとんどホームルームで過ごすことがない。
お蔭でこれまでほとんど親しくなれた人間はなく、まともに話が出来たのはほんの数人しかいない。
「昇太、何かあった?」
「ああ、色々とな」
学校に着いて自分の席に着くと、ここに来て初めに友達になった、大林安三が話しかけてきた。
「おまえ、相当顔色悪いし」
「まあ、だろな……」
俺はカバンの中身を机にしまいつつ、ため息交じりで応える。




