「結婚生活」 始まる
「ホントにこれで良かったのかよ?」
「しようがないでしょ、うちのお父様、言い出したら絶対に人のこと聞かないんだから。」
「っていうか、自分のことだろ。親父の言われるままでいいのかよ。」
「あなたには関係ないでしょ」
「関係ないって……」
俺も当事者じゃないのかよ。
……なんなんだこいつ。
蝶山社長とうちの親父はというと、俺の気が変わらないうちにとでも思ったのか、俺たちを放り出して、さっさと婚姻届けをもって行ってしまった。
残されたのは俺たち二人。
広くはないうちのぼろアパートの一番奥に、ぴったりと張り付いてこっちを睨んでいる咲菜。まるで知らない人間が来て、玄関先でウーウー唸ってる子犬みたいだ。
俺とは言うと、そんな彼女の「威嚇」に威圧されて、自分の家だというのに、玄関先から部屋の中に入れずにいた。
「つーか、おまえ、本当は結婚なんかする気なんか、全くないんだろ。」
「どうして?」
「だって、こんなことしてて、まともな結婚生活なんて成り立つわけねーだろ」
ちょっとでもこっちが近づこうものなら、何が飛んでくるか分からないぐらいの権幕なわけで、一般的に考えられている結婚生活なんて、これでは成り立ちようもない。
「あ、あなた、夫婦がすることみたいなこと期待してるんだ。……やっぱりいやらしい」
「あ、あのなあ」
なんだこの「中学生の女子」みたいな反応は。
「あんたの前の夫っていうのにも、こんなにしてたのか」
「なんで、そんなことをあなたに話さなきゃらないの?」
低い声でそう答える。言いたくなけりゃ別に良いと、タタキで突っ立ったままなのも疲れたので、彼女を背中にして玄関に腰を下ろした。咲菜のやつ、身構えてうろたえてる。
「どうせ、わたしの悪口、散々聞いてるんでしょ。そりゃ、ちょっとやり過ぎたとは思ったけど、……だって、わたしが寝てるスキに近づいてきて、触ろうとしたのよ!」
そうしてちらっと見ると、両腕で自分の胸をぎゅっとかき抱いていた。どうも前夫のターゲットは胸だったらしい。
「悪いわね、『狼おんな』で」
「はあ?」
「あんなことで、指が取れそうになるなんて思わなかったのよ」
「指が取れる?」
「手術したらちゃんと付いたんだから、そんなに誰彼に言いふらさなくっても……」
俺は今の話を繋げて、こいつの前夫が体験したことを想像していた。そして何が起きたのかがわかるに至って、俺はクラッと眩暈がした。
「要するに、かじりついて、指がもげかけたと?」
「……そうよ」
やっぱそうなんだ。
「……でも良かったのよ、お蔭であんな変態のオジさんと別れることが出来たんだから」
自分に言い聞かせるようにそう言う、咲菜であった。
日が暮れていく。それにしても滅茶苦茶な一日だった。そしてその滅茶苦茶なことは未だに収集せずに、夜になってもやっぱり滅茶苦茶なままであった。
親父の会社がこけて家が無くなった時に、これからどうなるのかと不安でならなかった。当然あるべきものが急になくなるというのは、思いのほか堪えるものだ。もしそれが生活に不可欠な者だったら、途方に暮れてしまうだろう。
そう今、あの時みたいな、先の見えない不安を感じている。紛いなりにも新しい生活がやっと軌道に乗りかけていた矢先に、それを全部ひっくり返されたような気分。
はっきり言ってキツすぎる。
でもまあ、言ってしまえば、家を失くした時からも結局はどうにかなり、今があるともいえる。もうダメだと思っても、何とかなるのがこの世の中なのかもしれない。
だったらいつまでも不安でふさぎ込んでいるわけにはいかない。あの時知ったのは、最悪の時にこそ、まず目の前のことを一つひとつ、こなしていくしことだった。
……それじゃ。
カタン
「な、な、何ですか?!」
「あ、ご、ごめん」
俺が立ち上がると、すっごい目でこっちを睨みつけた。しかし、いちいち反応するのは止めて欲しい。バツ2の「ベテラン」のくせに、何ビクビクしてるんだよ。
俺は胃が痛くなりそうなピリピリ感いっぱいの部屋の中で、看守に見張りされている囚人のように過ごすことには、限界を感じていた。
睨み合いをしているうちに、夕飯時をとっくに過ぎている。緊張で腹はそう減ってはいないが、食事を出汁に動いてみようと思ったのだ。
「あのさ、夕ご飯どうするの?」
「ご自由に、食べに行かれたらよいでしょう」
「あんたは?」
「わたしは勝手にします」
いちいち喧嘩腰。じゃあという事で、俺はさっさと外に出た。
「さあて、どうするかなあ」
俺は自転車置き場から、うちの錆びくれたボロ自転車を引っ張り出してきて跨ると、夜空に輝く夏の大三角形を見上げた。
考えてみたら、ここに引っ越してから、外に食べに行ったことなど一度もない。というか、そんなこと経済状態が許さなかった。
駅前のコンビニに行って、おにぎりでも買って、公園で食って……。
外食と言っても、せいぜいこれぐらいが限界。
俺は駅前のコンビニに向けて自転車を走らせる。道端の他の家の明かりが、今日はなんかやたら目に染みる。
今の家は狭くって古くって人に誇れるような家ではないが、それでも俺にとっては、唯一と言って良いくつろぐことのできる場所であった。
それを咲菜に占拠されたとなれば、もうフラフラと外をうろつくしかないのだろうか? 重い気持ちがズシンと胸に広がり、ため息が漏れる。
わびしいなあ……。
結婚とか言うから、いくら相手がバツ2でも、ちょっとは甘い感じになるかなと、一瞬でも思った俺がバカだった。
後ろ向きだとはいえ、一応、二つ返事で結婚をOKした咲菜を見て、ああ見えても少しは気があるのかななどと、傲慢な考えがちらついた俺は、救いようのないアホだった。
……親父たち、もう、婚姻届け出したんだろか。
正直、もう、これで終わりにしてしまいたい。
いや待て、あんなに警戒していたんだから、俺が出たすきに、逃げて行ったかもしれない。
本当にそうであってくれたら良いのに……。
あいつの今までの結婚期間、二か月と一か月とか言ってたけど、こんなのをそれだけ続けたんだろうか。さっきは「離婚、早!」とか思ったけど、今では良くそこまで頑張られたなと思う。
まあ、二人目は指食いちぎられかけた時点で即、離婚だろけど。
俺はコンビニで、しこたまオニギリを買い込んだ。それから店のそばの公園で腹いっぱい食べた後、家に向かった。自転車のかごに入れた残りのおにぎりは、万が一、あの娘がまだいたらやろうと思っていた。
家に帰りつくと電気がついていた。普通は父さんも母さんも、この時間には帰ってこないから、あの二人ではない。
いやまさか……
俺にとって、もしかして帰ったら出て行ってるかもというひらめきは、俺の中では、必至の成り行きに思えていた。しかし、明々と明かりがともる家を目にして、それが単なる希望的観測だったという可能性が、一挙に高まってしまった。
カギは閉まっていた。逃げ出したとするなら、鍵なぞ閉めないだろうから、ほぼこれで確実に、このドアの向こうはあの針の筵が待っているという事になる。
項垂れて鍵を取り出して玄関の薄くて軽い玄関扉を開くと、恐る恐る部屋の奥を覗いた。するとそこには、体育座りをしたまますっかり寝入っている咲菜がいた。
くそ、なんで、出て行かなかったんだ。
頭をガシガシとかいた。この女は何を考えているのか。全く分からない。
ああそうだと手に持っているコンビニ袋に視線を落とす。いや、これが本当に役立ことに苛立ちを感じる。俺は仕様がないと忍び足で彼女に近づくと、その傍らに買ってきたコンビニおにぎりの袋を置いた。
静かに寝入っている咲菜は、全くもって芸術作品のように整った顔をしている。真っ白な頬本当に綺麗だった。しかし良く見ると、そのほっぺたはなんかよく分からないものがくっついていて、頭はボサボサ。服がさっきとは変わっていて、だっぷりしたグレーのスウェットを着ている。しかもかなり汚れてるし、ちょっと匂ってる。
おっと、こんな至近距離で眺めているの見つかったら、噛みつかれる。
俺は思わず自分のしてしまったことにブルっと震えて、急いで、しかし忍び足で玄関先に戻った。
マジで指を食いちぎられるのは御免だ。絶対の安全距離を取らなければならない。
「酷い一日だったなあ……」
自分の夕飯と作名の夕飯を準備して、なんかホッとした俺は、腹いっぱいになったこともあってやたらに眠くなる。俺は近くにあった毛布を引き寄せ、玄関先で横になった。
兎に角、寝よう。寝て覚めたら、全部夢という事で話が終わるかもしれない。
そんなことを本気で考えている俺がいた。




