古びたフスマ
<一番ヤバいのは、何といっても俺たちが結婚しているということと、既に同居しているということで、そういう話、普通、高校生じゃありえないから、やたらに目立ってしまって、相当、不味いかもと……>
昇太から「折り入っての話」を聞かされたその夜、台所に立って片づけをしている咲菜は、昇太の言葉を思い出しては、そのたびに深いため息をつくのだった。
<高校生で結婚なんてありえないだろ。俺たちだって、無理やり引っ付けられたからこうしてるわけで、本当はこんなはずじゃあなかったんだからさ。>
無理やり? 本当はこんなはずじゃあなかった?
昇太の言葉を口の中で言い直してみると、不意に唇が震え始め、ポロポロと涙がこぼれ始める。
最近ではすっかり家事に慣れ、もうさっさと終わらしてしまうようになった洗い物だけれど、今日に限っては洗っては止まり洗っては止まりと、なかなかはかどらない。
昇太はというと、思わぬ咲菜の反応にうろたえながら、どうにかフォローしようとじたばたしてみるも、あえなく咲菜に「明日の準備をしたいから先に休んでください」と言われ、どうしようもなく、じゃあせめて邪魔にならないようにと、いつも寝ているリビングの片隅ではなく、いつもは咲菜が寝てい奥の和室に布団をひいた。
洗い物やっとが終わり、じゃあということで明日のお弁当の準備のために、蒸かしたじゃがいもの皮をむき始める。単純な作業は手に任せ、彼女の頭を巡るのは、やっぱり今日あったことについてだった。
***
…… 指輪で、結局、すっかり浮かれてしまっていということ。
薬指にきらめくこの指輪で、ずっと抱えていた悩み、重い過去のことが、霧のように消えてしまったのだと思ってしまっていた。
「調子、良過ぎるよね?」
シンクの向こう側のガラスに映る自分に、思わず話しかける。でも答えが返ってくるはずもなく、困って首を傾げる自分の顔がそこにあるだけ。
形としては幾ら夫婦とはなっても、その真実はといわれると、結局はあの昇太さんの言葉なのだ。
わたしの過去、わたしたちがこうなった経緯、そしてわたしたちがまだ高校生だという現実は、そう簡単に乗り越えることはできない。
一緒に学校に行って、買い物をして、食事を作り、昇太さんの帰宅を待ちわびるときも、「ただいま」という声を聞くときも、今までの自分の人生で、味わったことのない充実感を感じている。
それまでの自分に対する待遇ときたら、まるでガラス細工か何かの人形のように、まるで壊れ物を扱うかのように恐々と接される、そうじゃなかったら逆に使い捨ての道具のように、全く意思など無視されて、大人たちの都合のいいように扱われる……。
昇太さんとはそうではない。
昇太さんはわたしを、どこまでもわたしのことを心を持った人として扱ってくれる。だから本気で意見して、時としてダメだししたり、決して話すのが上手ではないけれど、一生懸命自分の考えていることを伝えてくれた。
いつも頭ごなしの命令したり従わせたりするのじゃなく、ちゃんと納得して欲しいと思ってくれている。
…… わたしは本当に大事にされている、一人の人間として。
これが本当の幸せなんだと、毎日まいにち、そう思いながら過ごしている。
昇太さんとのこんなに穏やかな毎日を過ごすうちに、わたしはいつの間にか、これまでの重い出来事なんか、何もかも無かったような気になっていた……。
そんなところに、あんなプレゼント……。左手薬指に指輪はめてもらうなんてしてもらったものだから、有頂天になってしまった。
思わずこぼれる大きなため息。
皮をむき終え、随分冷たくなってしまった、蒸かしたジャガイモを、コロッと皿の上に転がした。
でも、そんな中で、たったひとつ良いことがあった。それは今日、今までまだおぼろげだったものが、はっきり分かった。
それはわたしが、本当の昇太さんの妻に、どれほど真剣になりたいと思っているかということ。
たくさんの負い目があるわたしには、自分の思いに応えることを、昇太さんに強いることは絶対できない。
だけど、わたしが一人で勝手に彼の妻でいようと思うことは、許してもらえるんじゃないか。
もちろん、この思いが受け止められるとするなら、それはどんなにか幸せなことだろうかと思う。例えその思いが宙ぶらりんのまま終わるとしても、今日わたしは一つの決心をしよう。
わたしはただ、精一杯、草場昇太という人を、妻として愛していく……。
咲菜はきゅっと口を引き結ぶと、テーブルの椅子からすっと立ち上がった。そして足音を忍ばせ昇太の眠る部屋のふすまの前に立つ。
そこで何度か深呼吸をして息を整えると、音の立たないように慎重にその傷だらけのフスマを開けた。
部屋の暗闇の中から、昇太の寝息が聞こえてくる。
こんな時間帯、こんな状況で、昇太のところに行くことはめったにしない。そんなことを意識すると、咲菜の鼓動は本人がうるさく思うほど高鳴り始めた。
足を戸を忍ばせ、昇太の眠る布団の枕元にひざまずくと、更ににじり寄って、薄暗い中にふわっと見えるその寝顔を覗き込んだ。
「こんなはずじゃあ、なかった……のかもしれませんけれど……」
自然に胸で重ねた合わせた両手をきゅっと握る。
「出て行けと言われるまで、それまでは、それまでは……」
その瞬間、ポロポロっと白い頬をキラキラと光るしずくが流れ落ちた。
「あなたの妻で……いさせてください」
そして寝息を立てる昇太に、両手をついて頭を下げた。
+++
「こうなったら、徹底的にやりましょう」
昇太の枕元から台所に帰った咲菜は、何かすっきり吹っ切れた表情を映していた。彼女は自分に言い聞かすように宣言しそそくさと立ち上がると、部屋の隅に積んである、自分が実家から持ってきた荷物を物色し始めた。
「これね…」
その荷物の一番下に敷かれていた大きなスーツケースを前に、一つため息をつく。それは父から無理に持たされ、だからこそ絶対に開けまいと誓っていたスーツケースがあった。
「でも、もう、いいわね」
彼女はゆっくりと、そのケースを開けた。
大きく開いた大型スーツケースの中に収まっていたのは、英国王室ご用達のブティックから買ったという、何着かのワンピースである。
これまで「物」で解決させようとする父のやり方がどうにも我慢できなくって、どんなことがあってもこれは開けまいと思っていたのだった。
しかし最近、その大嫌いな父のことを、少し違う感情をもって、思い出すようになっていた。
というのは、その父の横暴によって昇太と出会ったという事実は、否定することができないのだから。こんな出会い方ではあったけれど、兎に角、感謝しなければと思っていた。
というわけで、なんとなく毒気が抜けかけていたところに、今回の「折り入っての話」ということで、この「開かずのスーツケース」の中身を使っての、ちょっとしたアイデアを思い付いた彼女は、今こうして意を決して開けたのだった。
「あら? これは?」
さあどれを使いましょうかと、スーツケースから白やピンク、ライトブルーなどなど、鮮やかな色のワンピースを引っ張り出しているうちに、その間からぽろっと封筒がこぼれ出た。
何かしらと手に取ってみると、あて名書きのところに「咲菜へ」とだけ書いてあった。
こんなところに入れてあるうえ、父でもない母でもない、あまり見覚えのない字体で書いてあったので、ますます不思議に思ったわたしは、早速に封を切って中を確かめる。
そこには短い手紙と、赤い色の紐の切れ端が入れてあった。
「咲菜へ
私はあなたの祖父の光一郎である。今まで本当に色々と会社のために苦労を掛けてしまい、大変申し訳ないと思っている。
今回、この縁談を進めるように指示したのは、他ではない私だ。それは、この縁談こそは、あなたを幸せにしてくれる人であると、私が信じているからだ。
同封した赤い紐は、わたしがその男性に助けてもらった時、その男性に気づかれないように結びつけた紐と同じものである。
どこかでこの赤い紐と同じものを見つけるのではと思っているが、それが、その人が人を見かけによらず、誠実を尽くしてくれる人物であることの証であると思ってほしい。
祖父であるのに、全く祖父らしいことがしてやれず、心苦しく思っている。
苦労をかけたあなたには、物ではなく人としての幸せをこそ獲得してほしいと祈っている。
きっと彼が、あなたにそれをもたらしてくれるだろう。
どうか幸せになっておくれ。
心からの祝福を込めて。
咲菜へ 蝶山 光一郎 」
「お祖父様?」
大財閥の総帥であり、祖父・孫といってもはるか遠い雲の上の存在に感じていた。
祖父には色々と多くの子どもがおり、だから多くの従兄姉たちがいる。それぞれがそれこそ世界的規模の会社を切り盛りしている。
だから父の会社は大きいといっても、そんな大グループ会社の中で、最近やっとのことそれなりの大きさになった会社一つ、というのが財閥内での評価なのだ。
その総帥であった祖父が、実際、自分の名前を覚えていたということだけでも、ある意味びっくりしてしまう。
咲菜としては、ちらとしか見たこともない祖父という存在が、今一つピンとこず、そのような人に幸いを願われても、確かにありがたいとは思いながらも、複雑な気持であった。
そんなことを考えながら、赤い紐を取り上げて、まじまじと見る。
「こういう紐、どこかあったかしら?」
でも、祖父が願った通り、自分はかつてより、間違いなく本当の幸せに近づいているような気がしている。父だけではなく、祖父も昇太とのことに一枚かんでいることを知って、目を瞬かせる彼女だった。
「さ、こんなこともしていられないわ。準備をしなければ」
しばらく祖父の手紙のことで手を休めた咲菜は、昇太の「折り入って」の願いのために作業を進める。
……クラスメートに弁当のつくり方を教えること。彼に持たせている弁当が、好意からのものではないこと、そして自分たちが特別な関係ではないのだと、クラスメートに信じ込ませること … 。
そのことを考えると、やっぱり思わず心が揺れる。どれも自分が決して願わないことなのだから。けれど、彼が平穏な高校生活を続けるためには、どうしてもそうしなければならない……。
一つ深呼吸をした咲菜は、すっと立ち上がって、いつも使っている台所用具のいくつかを、トートバックに詰め始めた。
+++
その夜、ほとんど寝なかった咲菜は、そろそろ昇太を起こさなければならない時間になっていることを確認し、自らの身支度に入った。
彼女はいつもの部屋着をするっと脱ぎ、光太郎と光一郎から持たされたワンピースを頭からかぶった。真っ白の彼女の肌と夏の空に似合う、淡いブルーのそれは、彼女をいっぺんにプリンセスにしてしまう。
咲菜は心に決めていた。
今日一日は、葉山咲菜ではなく、蝶山咲菜に戻ろうと。それこそが、今日、目的を達成するために彼女が行き着いた答えだった。
…… そして、昇太さんは、わたしとは関係ない、一人の男子高校生。あの日、初めて出会った時のように、拒絶し背中を向けていよう。
それは考えただけで、悲しくなってしまうストーリーだった。でも、彼女にはそうするしかないと思われた。
咲菜は大股で昇太の寝ている和室のフスマに近づくと、昨晩とは全く違って、一気にそれを開けた。
「昇太さん!!」
「ん、咲菜?」
「『咲菜さん』と言いなさい!」
咲菜はもう長い間せずに、半分忘れかけていたお腹の底からの堅い声で、厳しい口調で命令する。
「準備しなさい。もう一時間もしたら出発です」




