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『十三時十二分』 健常者は知らない  作者: キロヒカ.オツマ―


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第九章 美咲の記憶

福祉施設「ひまわり園」の一室。美咲は、テーブルに広げられた事故現場の写真を、じっと見つめていた。


美咲には知的障がいがある。三十七歳になる彼女は、幼いころから、この施設に併設された作業所に通っていた。会話の中で、複雑な因果関係や、抽象的な概念を扱うことは、彼女にとって得意ではない。だが、彼女の記憶力には、時折、周囲が驚くほどの精度がある。一度見た人の顔、一度通った道――一般的な意味での「論理」は苦手でも、視覚的な情報の再現には、大輔たちが舌を巻くほどの正確さがあった。


美咲の両親は、彼女が幼いころに離婚し、以来、彼女は母方の祖母に育てられた。祖母が三年前に亡くなってからは、ひまわり園の近くにある小さなグループホームで暮らしている。彼女の日課は、平日は作業所での軽作業、週末は近所の公園を散歩することだった。公園の桜の木の場所、ベンチの数、遊具の配置――美咲は、そのすべてを、まるで写真のように記憶している。


施設の職員たちは、美咲のこの特性を、長年「サヴァン的な記憶力」と呼んできた。だが美咲自身は、そんな専門用語には興味がない。彼女はただ、「見たものは、見た」と、いつも同じ言葉で説明する。


「この人、いた」


美咲は、写真の隅に写り込んだ、事故とは無関係に見える男性を指さした。指先は、ほんのわずかに震えていた。誰かに注目される状況は、美咲にとって、いつも少し緊張を伴う。


「どこで会った?」


大輔が尋ねると、美咲は少し考えてから答えた。彼女の視線が、天井の隅に泳ぐ。何かを思い出すとき、美咲はいつも、視線を上に向ける癖があった。


「駅。前に。何回か」


磯川がその男性の身元を調べると、地元の不動産関係者だとわかった。だが、事故当日、彼には明確なアリバイがあった。取引先との会食の記録、店の防犯カメラの映像――疑いようのない証拠だった。


「美咲さんの記憶、鵜呑みにはできませんね」


磯川の部下がそう漏らした。まだ二十代後半と思われる若い刑事だった。彼に悪意があったわけではない。ただ、彼のこれまでの捜査経験の中に、「知的障がいのある証言者の証言をそのまま採用した」という前例が、一度もなかっただけだった。


美咲がその言葉を聞いていたかどうかは、わからなかった。だが彼女は、テーブルの下で、静かに拳を握っていた。


「――いた。私は、見た人を忘れない。忘れられるのは、私を"忘れていい人間"だと思ってる人たちだけ」


その一言に、部屋の空気が凍った。


大輔は、美咲のその言葉を聞きながら、彼女がこれまでの人生の中で、何度、同じような扱いを受けてきたのだろうかと考えた。学校で。職場で。役所の窓口で。「彼女の言うことは、参考程度に」という前提が、いつも彼女の言葉の前に立ちはだかってきたに違いなかった。


美咲が小学生だったころ、彼女は一度、教室でクラスメイトの持ち物がなくなった事件の「目撃者」になったことがあった。彼女は、誰が、いつ、その持ち物を持ち去ったかを、正確に説明した。だが担任教師は、「美咲さんの言うことは、少し確認が必要ね」と言い、結局、その証言はまともに取り合われることがなかった。後になって、美咲の説明が完全に正しかったことが判明したが、その謝罪は、誰からも彼女に届かなかった。


「美咲さん」


大輔は、静かに、しかし丁寧に声をかけた。


「あなたが見たものを、僕は信じます。それが証拠として使えるかどうかは、また別の問題だ。でも、あなたが嘘をついていないことは、僕にはわかる」


美咲は、初めて、わずかに表情を和らげた。


「ありがとう。あなたは、ちゃんと、見てくれる人」


その日の帰り道、大輔は、美咲が暮らすグループホームまで、車で送っていった。助手席に座った美咲は、窓の外を流れる景色を、ずっと眺めていた。


「大輔さん。私、この道、好き」


「なんで?」


「まっすぐだから。まっすぐな道、迷わない」


大輔は、その言葉に、静かに頷いた。美咲にとって、世界の「わかりやすさ」は、単なる好みではなく、日々を安心して生きるための、切実な条件なのだと、改めて感じさせられた。


グループホームに着くと、世話人の女性が、笑顔で美咲を迎えた。美咲は、その日あったことを、簡単に、しかし嬉しそうに報告していた。「今日、大輔さんと、写真見た。あの子のこと、話した」――その報告を聞きながら、世話人は、美咲の様子がいつもより明るいことに気づいた様子だった。


大輔は、車に戻る前、しばらく、ホームの窓に灯る明かりを見つめていた。あの小さな部屋の中で、美咲は、これまでどれだけの「聞き流された言葉」を、積み重ねてきたのだろうか。そう考えると、大輔の中で、この事件を必ず解決させるという決意が、また一段と強くなるのを感じた。

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