第十章 間違った目撃者
磯川は、美咲の証言を慎重に扱おうとした。だが、別の証言と食い違いが見つかると、署内の空気は一気に変わった。
美咲が「見た」と主張した不動産関係者のアリバイが確定した後、署内の一部からは、美咲の証言そのものへの不信感が、公然と語られるようになっていった。
「知的障がいのある方の証言は、正直、裁判では通りにくい。記憶の混同や、暗示による誘導の可能性も否定できませんから」
そう言ったのは、署の若手刑事だった。悪意はなかったのかもしれない。むしろ、彼なりに「捜査の効率」を考えた、事務的な発言だったのだろう。だが、その言葉は、美咲の目の前で発せられた。
美咲は表情を変えなかった。だが大輔は、その硬直した沈黙の意味を知っていた。
「今、あなたが言ったことの意味、わかってますか」
大輔が静かに口を開いた。
「あなたは今、"この人の記憶は、この人の障がいのせいで信用できない"と言った。それは、事実の検証じゃない。属性による切り捨てです」
「そんなつもりでは――」
「つもりがなくても、結果は同じです。あなたたちは、証言の"内容"より先に、証言者の"属性"を疑う。それが、この社会が僕らにしてきたことの、縮図そのものだ」
若手刑事は、何も言い返せなかった。彼の顔には、これまで一度も向けられたことのない種類の批判に対する、戸惑いが浮かんでいた。
美咲は、小さく呟いた。
「私、嘘つかない。嘘つけるほど、器用じゃないから」
その言葉が、皮肉にも、部屋にいた誰よりも「論理的」に響いた。
磯川は、その場の空気を見つめながら、内心で何かが揺らぐのを感じていた。彼自身、これまでのキャリアの中で、証言者の属性を無意識に「重み付け」してきたことは、一度や二度ではなかった。それが正しい捜査手法だと、教えられてきたからだ。だが、その「重み付け」の基準そのものが、実は、社会の偏見をそのまま引き継いだものだったとしたら――磯川は、その疑念を、まだ言葉にできずにいた。
会議が終わった後、若手刑事は、一人、美咲のもとに近づいた。
「美咲さん。さっきは、すみませんでした」
美咲は、少し驚いた顔をした。謝られることに、あまり慣れていない様子だった。
「いいよ。わかってくれたなら」
その短いやり取りは、大輔の目には、この事件全体の中で、小さいながらも確かな一歩に見えた。




