第七章 第三の事故
発達障がいのある青年、山内翔太が行方不明になった。数時間後、駅から少し離れた空き地で発見された。外傷はなく、身体的には無事だった。だが、ひどく怯えていた。
「いつもと違った」
翔太が言えたのは、それだけだった。
母親によれば、翔太は毎日、決まった時間に決まったルートで帰宅する。日課がわずかに崩れるだけで、強い不安に襲われる性質だった。彼にとって「いつもと同じ」であることは、単なる好みの問題ではなく、世界を安全だと感じるための、必要不可欠な条件だった。
翔太は、地元の作業所に週五日通い、簡単な軽作業を任されていた。母親は、翔太が作業所での仕事に、静かな誇りを持っていることを、よく知っていた。「今日は何個作ったの」と聞くと、翔太はいつも、正確な数字を答えてくれる。その数字へのこだわりもまた、翔太という青年を形作る、大切な一部だった。
「におい、が、違った」 「音が、違った」 「いつもの道に、いつもないものがあった」
断片的な言葉を、磯川は根気強く拾い集めた。だが、それを「証拠」として扱う書式は、警察には存在しなかった。磯川は翔太の母親に、何度も頭を下げながら聞き取りを続けた。母親は、疲れた顔をしながらも、翔太の言葉を、一つ一つ丁寧に補足していった。
「この子、匂いにすごく敏感なんです。いつも通る道に、少しでも違う匂いがすると、それだけでパニックになることがあって」
「その日、具体的にどんな匂いが」
「わからないです。翔太は"化学の匂い"って言ってました。それだけじゃ、何のことか……」
磯川は、翔太が発見された空き地周辺を、改めて丹念に調べ直すことにした。地面には、かすかにだが、油のような染みが残っていた。鑑識に依頼すると、それは工業用の溶剤の一種であることが判明した。だが、その空き地に、そのような溶剤が使われる作業が行われた記録は、どこにも残っていなかった。
大輔は、その報告を聞きながら、静かに思った。
翔太の「いつもと違う」という感覚。花の「聞いたことのない音」。海の「十二分のずれ」。大輔自身の「傾斜への違和感」。
すべて根っこは同じだ。
健常者が一生気づかない、あまりに些細な"ずれ"。
――僕らはずっと、この街の"異常"を検知するセンサーとして生きてきた。ただ、この街は一度も、そのセンサーの数値を採用したことがない。
大輔は、静かに拳を握った。
今回は、採用させる。
翔太の母親は、その日の夜、大輔に一本の電話をかけてきた。彼女は、大輔たちの団体の存在を、以前から知っていたという。
「戸田さん。翔太のこと、本気で調べてくださっているんですね。ありがとうございます」
「まだ、何もわかっていません。でも、必ず、突き止めます」
母親は、少し沈黙した後、静かに続けた。
「翔太は、小さいころから、ずっと"変わってる"って言われ続けてきました。学校でも、近所でも。私は、その度に、謝ることに、慣れてしまっていました。でも、今回、あなたたちが、翔太の言葉を、"変わってる"じゃなくて、"手がかり"として扱ってくれた。それだけで、私は、初めて、この子の感覚を、誇りに思えた気がします」
大輔は、電話の向こうの声に、静かに耳を傾けていた。この一言もまた、これまで大輔たちが積み重ねてきた、小さな、しかし確かな変化の一つだった。




