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『十三時十二分』 健常者は知らない  作者: キロヒカ.オツマ―


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第五章 聞こえない警報

福祉施設「ひまわり園」で、利用者が階段から転落しかけた。職員が間一髪で支えたが、施設の防犯記録には奇妙な事実が残っていた。


警報装置は作動した記録がある。だが監視カメラの映像には、警報音が一切残っていない。


久保海は、幼くして聴覚を失っている。生まれつきの感音性難聴で、人工内耳を装用するようになったのは八歳のときだった。それまでの海にとって、世界は完全な静寂だった。音のない世界で育った子どもは、視覚と、そして数字への感受性を、独特な形で発達させることがある。海の場合、それは極端なまでの「パターン認識能力」として現れた。


人工内耳の手術を受けるかどうか、海の両親は、長い時間をかけて悩んだという。ろう文化の中で育つべきだという意見もあれば、少しでも早く聴覚を取り戻すべきだという意見もあった。最終的に両親が下した決断は、海自身の意志を、できる限り尊重するというものだった。八歳の海は、まだ幼いながらも、「聞こえる世界がどんなものか、知りたい」と自ら望んだ。手術は成功したが、人工内耳を通して聞こえる音は、生まれつき耳の聞こえる人が聞く音とは、明確に異なる。音の輪郭は、どこか電子的で、機械的だった。


人工内耳を使うようになってから、海は「音」より「データ」を信じる人間になった。音は嘘をつくが、数字は嘘をつかない、と彼は考えている。厳密には、音が嘘をつくというより、音を聞き取る「人間の解釈」が嘘をつく、というのが海の実感に近い。人工内耳を通して聞こえる音は、健常者の聞く音とは、微妙に、しかし決定的に違う。海はいつも、その"違い"の存在を意識しながら生きてきた。だからこそ、彼は解釈の余地がない、客観的な数字のログを、何よりも信頼するようになったのだった。


海がひまわり園に関わるようになったのは、大学でシステム工学を学んでいたころ、施設のIT環境整備のボランティアとして参加したのがきっかけだった。以来、彼は施設の設備管理を、半ば非公式に手伝い続けている。施設の職員たちは、海のことを「うちのシステムの生き字引」と呼ぶほど、彼の知識を頼りにしていた。


海は、警報作動のログと、映像データのタイムスタンプを照合した。深夜まで一人、施設のサーバー室にこもり、無数のログファイルを、一行ずつ、丁寧に照合していった。サーバー室特有の、機械の唸るような音が、彼の周りを包んでいた。人工内耳を通して聞こえるその音は、海にとって、どこか安心できる、規則正しい音だった。


そこには、正確に十二分間のずれがあった。


海はこの結果を大輔に見せた。ノートパソコンの画面には、緑色の文字列がびっしりと並んでいる。


「戸田さん。これは、自然に生まれるずれじゃない。誰かが、時刻を書き換えています」


「なぜ、そう言い切れる」


「システムは、感情で誤魔化しません。人間は"だいたい"で誤魔化す。でも数字は、ずれるなら理由がある。理由がないずれは、人為的なずれです」


海は、感情のこもらない声で続けた。


「僕は耳が聞こえません。でも、僕には数字が聞こえます。そしてこの数字は、はっきりとこう言っています。誰かが、この施設の"音"を、意図的に消したと」


大輔は、その画面を覗き込みながら、海という青年の内側にある、静かな怒りのようなものを、初めてはっきりと感じ取った気がした。海は、感情を表に出すタイプではない。だが、彼の言葉の選び方には、いつも、微かな鋭さが宿っている。


海が大学でシステム工学を学ぶことを決めたのも、この「気づかれない怖さ」への反発からだった。彼は、入学当初、周囲の学生たちとの間に、大きな壁を感じていた。講義中の雑談、休み時間のちょっとした会話――健常者にとっては何でもないコミュニケーションが、海にとっては、常に一歩遅れて届く、あるいは、まったく届かない情報だった。


だが、プログラミングの授業で、彼は初めて、自分の世界に「対等な言語」を見つけた。コードは、誰にとっても同じ形で存在する。そこには、聞き取りにくさも、発音の不明瞭さも、介在しない。海は、その世界にのめり込んでいった。卒業論文のテーマも、「聴覚障がい者のための環境音の可視化システム」だった。彼にとって、この事件の調査は、まさにその研究テーマの延長線上にあるものだった。


「戸田さん。僕は、この街の"音"を、いつか、目に見える形に変えたいと思っています。警報も、案内放送も、電車の走行音も――すべてを、僕らのような人間にも、"見える"形にできたら、この事件のようなことは、二度と起きないはずです」


大輔は、その言葉に、静かな希望を感じた。

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