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『十三時十二分』 健常者は知らない  作者: キロヒカ.オツマ―


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番外編一 片桐謙一郎、三十年前

三十一歳の片桐謙一郎は、市役所都市計画課の中でも、変わり者として知られていた。


同期の職員たちが、道路の拡幅や区画整理といった、目に見える「実績」を追い求める中、片桐は、誰も見向きもしない案件に、いつも熱心だった。歩道の傾斜角度。点字ブロックの配置基準。エレベーターの扉が開いている時間の長さ。そうした、街の「隙間」にあたる部分にこそ、片桐は強い関心を持っていた。


きっかけは、彼の妹だった。片桐には、生まれつき下肢に障がいのある妹がいた。幼いころから、片桐は、妹が段差の前で立ち尽くす姿を、何度も見てきた。妹は、いつも申し訳なさそうに、「お兄ちゃん、また運んでくれる?」と聞いてきた。片桐は、その度に、笑顔で妹を抱えて段差を越えたが、心のどこかで、いつも思っていた。


――なぜ、この街は、妹が一人で越えられる段差を、作ろうとしないのだろう。


市役所に入ったのも、いつか、その疑問に、自分の手で答えを出したいという思いからだった。


「天城中央連絡道路」の計画は、片桐にとって、まさにその答えの一つになるはずだった。旧市立障がい者支援センターと、駅前商店街、そして市の中心部を、切れ目のないバリアフリーの道でつなぐ。当時としては、極めて先進的な構想だった。片桐は、この計画に、自分のキャリアのすべてを賭けるつもりで取り組んでいた。


計画が凍結される、その半年ほど前――片桐は、施設の職員から、ある奇妙な相談を受けた。


「片桐さん。うちで進めている"環境適応プログラム"のデータ、都市計画課に提出しろって、上から言われてるんですが……これ、本当に必要なんですか」


片桐は、当時、そのプログラムの詳細までは、把握していなかった。ただ、「子どもたちの感覚データを、バリアフリー設計に活かす」という説明を受け、純粋に、良いことだと信じていた。


「もちろん必要だよ。子どもたちのデータが、将来、みんなの役に立つんだから」


その言葉を、片桐は、今でも後悔している。


半年後、計画は突然、凍結された。理由は、片桐にも、正確には知らされなかった。ただ、上司から、「これ以上、この件に深入りするな」とだけ、言い渡された。


同時期、施設の閉鎖と、"環境適応プログラム"の中止が、慌ただしく決定された。片桐は、その決定の裏に、何か大きな問題が隠れていることを、うすうす感じ取っていた。だが、当時の彼には、それを追及するだけの、地位も、勇気もなかった。


三十年後、片桐は、再開発会社の社長として、この街に戻ってきた。彼が掲げた「バリアフリー先進都市・天城」というスローガンは、確かに、彼自身の本心からのものだった。だが、その本心の奥底には、いつも、あの時追及できなかった疑問への、消えない罪悪感が、静かに横たわり続けていた。


事件が明るみに出た後、片桐は、自宅の書斎で、三十年前の資料を、改めて読み返した。子どもたちの反応データ。都市計画課への提出記録。そして、計画凍結の直前に交わされた、複数の内部メモ。


そこには、当時の上層部が、あるデータの「悪用」を検討していた形跡が、断片的にではあるが、残されていた。片桐は、その資料を、震える手で、警察に提出することを決意した。


「私は、あの時、見て見ぬふりをしました。今さら、遅すぎるかもしれません。でも、これ以上、この事実を、私一人の胸の中に、埋もれさせるわけにはいきません」


片桐は、後に開かれた記者会見で、そう語った。彼の隣には、あの日、旧支援センターの跡地で撮った、子どもたちとの古い写真が、静かに飾られていた。

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