第三十六章 障がい者だけが知っている
事件の全貌が、少しずつ、明らかになっていった。
十八人目の相沢凛もまた、「すべてを知る黒幕」ではなかった。彼女は、三十年前、この社会から静かに声を奪われた、一人の少女に過ぎなかった。
そして、彼女の存在を知り、その死を悼み、この街への怒りを、あかねという一人の記者が、歪んだ形で引き継いだ。
だが、それすらも、この事件の"全部"ではなかった。
三十年間、無数の小さな沈黙と、見て見ぬふりと、"事故"というラベルの積み重ねが、静かに、この事件を育て続けていた。片桐の理想と挫折。坂上の疲弊と沈黙。数えきれない役所の窓口での、小さな諦め。そのすべてが、絡み合いながら、この街の地面の下に、深く根を張っていた。
裁判は、これから始まる。誰が、どこまで裁かれるべきなのか――その線引きは、簡単には決まらないだろう。あかねの弁護士は、情状酌量を求める方針だと聞いている。だが、被害者遺族の中には、決してそれを許さない人々もいた。田辺の遠い親戚だという男性は、記者会見で、「理由がどうであれ、命を奪ったことに変わりはない」と、静かに、しかしはっきりと語った。その言葉もまた、大輔の中に、重く残り続けた。
裁判の初公判、あかねは、法廷で、静かに、これまでの経緯を、包み隠さず語った。傍聴席には、被害者の遺族、そして大輔たち四人の姿もあった。あかねは、証言の最後に、こう付け加えた。
「私は、罰を受けます。それは、当然のことです。でも、もし私の言葉が、この街の誰か一人にでも届くなら――それだけを、願っています」
裁判官と、市民から選ばれた裁判員たちは、その言葉に、しばらく沈黙した後、静かに次の質問に移った。
大輔と花は、久しぶりに、天城市駅前の広場に立っていた。
以前はなかった設備が、そこには整備されていた。
スロープ。点字ブロック。音声案内。手話案内。分かりやすい表示。安全な歩道。
事件をきっかけに、市議会では、バリアフリー条例の抜本的な見直しが進められていた。皮肉なことに、あかねが最も憎んでいたはずのこの街が、あかねの起こした事件をきっかけに、少しずつ変わり始めていた。
「前より、歩きやすくなった?」
花が、静かに尋ねた。
大輔は、小さく笑った。
「俺は歩けないけどな」
花も、微かに笑った。
二人は、しばらく黙って、街の音を聞いていた。
電車のブレーキ音。人々の話し声。案内放送。かつて、大輔たちだけが気づいていた、この街の"ずれ"の音。
その音は、今も、消えてはいない。ただ、それに気づく人間が、少しずつ、増え始めているだけだった。
美咲は、あの後、施設に戻り、変わらず日々を過ごしている。事件の記憶は、彼女の中で、少しずつ、他の記憶と同じように、静かに整理されていっているようだった。だが、彼女は、あの日以来、時々、こう口にするようになった。「私の言うこと、信じてくれる人、増えた気がする」――その一言に、施設の職員たちは、みな、胸を打たれた。
山内翔太も、少しずつ、いつもの日課を取り戻していった。大輔は、事件の真相がわかった後、翔太とその母親のもとを訪れ、あの日、何が起きたのかを、丁寧に説明した。翔太は、しばらく黙って話を聞いた後、ぽつりと言った。「におい、悪くなかった。ちゃんと、わかった」――その一言に、母親は、静かに涙を流した。
海は、市の建設局に、設備の安全性を監査する専門チームの一員として、招かれることになった。彼にとって、それは初めて、自分の「聞こえない」という特性が、誰かに正面から必要とされる経験だった。彼は今も、深夜、一人でログを見つめる時間を大切にしている。だが、その視線の先にあるものは、もう、疑念や恐怖ではなく、この街をより安全にするための、静かな使命感だった。
磯川は、あれ以来、過去に自分が「事故」として処理した案件を、一つずつ、密かに見直し続けている。五年前の、あの車椅子の高齢女性の案件も、その一つだった。調べ直した結果、その案件自体には、新たな不審点は見つからなかった。だが、磯川にとって重要だったのは、結果そのものよりも、「見直す」という行為を、自分自身に課し続けることだった。
片桐は、再開発計画の一部見直しを、自ら発表した。会見の場で、彼はこう語った。「私は、三十年前の過ちを、正面から認めます。理想を語ることと、その理想の裏で見過ごされてきたものに、責任を持つことは、別のことだと、今、痛感しています」。その発言に対する世間の評価は、賛否が分かれた。だが、少なくとも、彼はもう、"善意"という言葉の裏に、自分を隠すことをやめていた。
片桐が、毎年、施設閉鎖の日に一人で出かけていた先も、後になって判明した。それは、旧支援センターの跡地だった。彼は、誰にも知らせず、その日だけ、あの場所に花を供え続けていたのだった。「言葉にする勇気がなかった分だけ、せめて、花だけは欠かさずに」と、後に片桐は、大輔にだけ、静かにそう語った。
大輔が、静かに言った。
「やっと、俺たちだけの街じゃなくなったな」
花は、白杖の先で、点字ブロックの感触を確かめながら、頷いた。
「でも、忘れないで。この"やっと"のために、何人、死ななきゃいけなかったか」
大輔は、その言葉に、何も返さなかった。
ただ、静かに、駅の方角を見つめていた。
十三時十二分。
かつて、田辺誠が命を落とした、その時刻が、今日も、変わらずに巡ってくる。
この街が、その数字の意味を、二度と忘れないように――
大輔は、静かに、心の中で誓った。
やがて、花が、大輔の車椅子の隣を、ゆっくりと歩き始めた。二人の影が、夕暮れの光の中、駅前の新しい歩道に、長く伸びていく。
その歩道には、段差はもう、ない。
【完】




