第三章 第二の事故
視覚障がい者の男性、佐伯が、いつもの横断歩道で車にはねられた。盲導犬とともに、何百回も渡ってきた道だった。佐伯は七十二歳。定年まで市の水道局に勤め、退職後は地域の視覚障がい者団体の世話役を長く務めていた人物だった。彼を知る人々の間では、「几帳面すぎるほど慎重な人」として知られていた。信号のタイミングを、体で完全に覚えるまで、何度も同じ交差点を渡り続けたという逸話が残っている。
佐伯の盲導犬、レオは、事故の瞬間、佐伯を庇うように動いたことが、目撃者の証言からわかっていた。獣医の診断によれば、レオ自身も軽い打撲を負っていたが、命に別状はなかった。事故後、レオは佐伯の入院先の病院近くの動物病院に預けられ、毎日、佐伯の家族が見舞いに通っていた。
「またか」
磯川は報告書を見つめ、額を押さえた。彼の机の上には、田辺の事故報告書がまだ処理されずに残っていた。
戸田大輔は、地図アプリに二つの事故現場を落とし込んだ。田辺が落ちた駅。佐伯がはねられた交差点。直線距離、約七百メートル。
その中間に、ひとつの更地があった。
「――旧市立障がい者支援センター」
大輔はその名前を、しばらく声に出さずに見つめていた。三十年以上前に閉鎖された施設。子どものころ、一度だけ通った記憶が、なぜかひどく曖昧だった。あの頃の記憶は、まるで濃い霧の向こうにあるようで、輪郭だけがぼんやりと残っている。大輔は自分でも、なぜあの施設の記憶がそこまで曖昧なのか、説明がつかなかった。母に一度、その施設について尋ねたことがあったが、母は「よく覚えていない」とだけ答え、それ以上は話そうとしなかった。その反応もまた、大輔の記憶の中に、小さな違和感として残っていた。
「偶然、ですかね」
隣で地図を覗き込む磯川に、大輔は静かに返した。
「偶然というのは、健常者が"考えたくないとき"に使う便利な言葉です」
磯川は何も言い返せなかった。
「二つの事故には、共通点がある。被害者が障がい者だということ。そして、どちらも"事故と断定するにはわずかに引っかかる"ということ。磯川さん、あなたが本当に見るべきなのは、被害者の属性じゃない。この街が、僕らの死に対してどれだけ雑な説明で済ませようとするか、その"雑さ"のパターンです」
磯川は、佐伯の事故現場の写真を、もう一度見直した。信号は青だった。運転手は「急に人が飛び出してきた」と証言している。だが、目撃者の一人――近くのコンビニ店員――は、「佐伯さんは、いつもよりゆっくり、確認するように渡っていたように見えた」と語っていた。
その証言は、これまでの調書の中では、脚注のように扱われていた。
大輔は、その一文を指でなぞりながら、低く言った。
「"いつもよりゆっくり"。この一言に、僕らの世界のすべてが詰まっています。佐伯さんは、慎重すぎるほど慎重な人だった。その人が、"いつもより"慎重に渡っていて、それでも事故に遭った。これは、単純な不注意じゃない。むしろ逆です。何か、いつもと違う異常を、彼自身が察知していたということです」
磯川は、コンビニ店員に、改めて詳しい聞き取りを行うことにした。店員は、当時のことを思い出しながら、こう付け加えた。
「そういえば、佐伯さん、渡る前に、いつもより長く、その場に立ち止まっていた気がします。まるで、何かの音を確かめるみたいに」
その証言は、花の証言と、不気味なほど重なっていた。




